理論の必要・ジャンルの色気

上記鼎談には、「(社会学では)理論的なものが求められなくなってきている」という話題がある。僕は「理論に興味がなくなった」ことを自分の個人事情だと思っていたのだが、そうではなかったのか。
ヒキコモリとの関連で考えてみる。


僕よりも年上のヒキコモリ当事者で、公的な発言を自覚的に試みた人はいない*1。(斎藤環さんは理論的に考えようとしているし、メンタリティ的には「ヒキコモリ系」と呼ぶべきなのかもしれないが、社会的には「当事者」としてではなく「精神科医」として発言している。)
他にも「ヒキコモリ」について発言している方は大勢いるが、どうも80年代(〜90年代初頭?)に左翼系知識人が「オタク」「サブカル」に共感的に振る舞った姿に重なってしまう。内在的理解はないのだが、彼らのイデオロギー的なアリバイ作り、というような。(うわ、言ってしまった。いや、もちろん有り難いんですよ。味方してくださるんですから。ここではあえて誇張的に言ってます。)


「外部から観察する目線」でヒキコモリを理論的に考えようとする言説は、社会学を中心に登場しつつあるらしいが*2、「当事者が内在的・理論的に考えよう」という姿勢はなかなか見られない。【付記:そういう言説は事実上ほとんどすべてネット上にあると思う。】 こういう事情も、「オタク」という言葉が流通し始めた80年代の事情と重なるんだろうか。あるいは、オタクとは違う別ジャンルの文脈と比較した方が生産的だろうか。
いずれにせよ、ヒキコモリはマイノリティーの問題ではある。


20代の始めから30代の始めにかけて『批評空間』というエポックメーキングな雑誌を眺めていた、という経験は僕の世代に特有のものだ。「世界から降りるしかできない」という僕がディタッチメントを深める中で理論的な興味を失ってゆき、「ヒキコモリ当事者」として再び社会との接点を模索し始めたとき、「理論的」であることはどのような意味を持ち得るか。
端的に言って、「この世界に興味深い理論的な営みが存在する」という感覚を持ったことがない下の世代の人たちに向けて、「理論的に」語った言葉に意味があるだろうか。――簡単にいえば、「僕がそんな魅惑をできるのか」ということだ。


ジャンルへの興味は、魅力的な固有名詞が支える。東浩紀氏がいなければ僕の「哲学・批評」への興味はすでに廃れていたろうし、鈴木謙介北田暁大・両氏がいなければ「社会学」に興味を向けることはなかった。「批評に興味があります」「社会学に興味があります」というその接点を支えるのは、ピンポイントの「この人」であり、そういう魅力的な野心家がいなければジャンルの色気は失われる。
ヒキコモリについてありきたりなことをボンヤリ考えていても、言説ジャンルとして廃れていくだけだ。(現にヒキコモリ本は今まったく売れないらしい。せいぜい斎藤環さんの本が少し売れるだけ。)
これを読んでくれているあなたが当事者であるなら、あなた自身が、そういう突出した個人を目指してみませんか?



*1:と、僕は思って淋しい思いをしているのですが、どなたかおられますか? いたら教えてください。

*2:この断定も失礼でしょうか。「社会学は内在的な語りである」と言うべきなんでしょうか?