関水徹平『「ひきこもり」経験の社会学』(左右社)について

「ひきこもり」経験の社会学

「ひきこもり」経験の社会学

左右社の本書のページ(目次ほか)


じっくり精読しました。

 もし、この「一緒に考える」過程において、支援者の構えや認識が変化する可能性がないのだとすれば、そこにあるのは「合意形成」の名の下で、支援者があらかじめ想定する支援目的や支援方法を押し付ける関係にほかならない。〔…〕ともに考えるような本人-支援者の関係を必要としている。(本書p.297)

このことは、関水徹平氏が著したような著作についても言えるはず。


論じたいことは様々ですが、
本エントリでは、どうしても触れておきたいことをいくつかメモします。
《ともに考える》を少しでも豊かにできることを祈りつつ。*1



理論言語の地位

 「ひきこもり」経験にアプローチするにあたって、本書が採用するもっとも基本的な枠組みは、シュッツのいう常識的構成(common-sense constructs)に対する二次的構成(constructs of the second degree)としての社会科学というとらえ方である。(本書p.20)

理論は、私たちが集団的な生に取り組むための技法の一部にすぎない。
理論そのものが、おのれの現世的地位を勘違いすれば、《ともに考える》は 毀損される。


二次的構成は、それ自体が(理論コミュニティにおける)常識的構成を生きている。
ここで言われる「二次的構成」は、イデア世界でメタな生を送っているのではなく、理論言語そのものが、この世の一次的生そのものだ。それを忘れてしまうと、理論言語だけが、他者たちのなかで《不当なメタ性》を主張し始める。――社会学という言説に対して私が感じている不信感は、このモチーフの周りにある。*2



焦点は《多数派vs少数派》ではなく、時間性を伴った交渉や配慮

本書の末尾では、問題を《同化主義》に置き、多数派が少数派(≒ひきこもり経験者)を抑圧するという問題が言われるのだが――ではたとえば、「ひきこもり経験者の集まりにおける少数派」は、どうなるだろう。自助グループでは、そういう場面はくり返し現れる。ここで多数派を形成する「ひきこもり経験者」は、今度は抑圧者の側にいるはずだ。
こうやって、「最もマイノリティ性の高いのは誰なのか」を探し始めると、きりがない*3。ここでは、《多数派vs少数派》という問題設定じたいが間違っている。


多数派であっても正しい(というか問題がない)ことはあるし、
少数であることは「問題がない」を意味しない。


ここで、自分たちの実情をやり直すかどうかについては、その都度その場で、時間的な生のある瞬間において問われることであって、無時間的な理念世界において問うことではない。「〜するべき」は技法の問いであって、メタ規範の問いではない。――メタ規範というのは、そもそも最初からニセの問いだ。*4


「Aであるべきか、Bであるべきか」を、無時間的≒観念的に、空中戦で戦わせる規範理論。――しかし焦点は、規範などではない。私たちの一次的生そのものをやりくりする《技法》こそが焦点だ。*5


本書第四章は、ひきこもり経験における時間体験の硬直を扱っているのだが――理論言語は、それそのものが無時間的意味への固着を求めるため、まさに言説世界そのものが、「時間の動かなさ」を要求している。ひきこもり事例において、勉強すればするほど状態が悪くなるケースが後を絶たないことと、これは関係している。


逆に言えば、ここで私が配慮や技法の時間性にこだわっているのは、
まさにこれこそが、問題意識の当事者的な*6やり直しであり、
内在的な臨床努力であるといえる。



創発の技法を内側から語ること

本書第三章では、ゴフマン『フレイム分析』を参照しつつ、《状況の秩序化≒状況の定義》という言葉が連呼される*7。ではその秩序化された状況にとって、社会学という言説そのものは、どのように位置づけられるだろう。そこが固定されたままでは、《社会学の目線》だけが状況の定義を逃れたメタに鎮座してしまう。

「状況の定義の変化」という関水氏の言い方は、始点と終点のスタティックな状態を静的に名指すにとどまっている。つまりそれは、内在的で創発的な取り組みを扱うことに失敗している。状況の定義は、固定的に与えられて終わるのではないし、変化した後のまま固定されるのでもない。むしろ、内側から取り組んでみずからが変化させてゆく、その着手と生成のプロセスこそが重要であり、それが支援の焦点ともなるはず。


第三章*8には、阪神・淡路大震災に被災した際のことを記した拙ブログからの引用が為されているが(p.267)、あのとき決定的だったのは、自前の取り組みが始まった、その蘇生そのものであって――これを話題にするのに、「状況の定義が変化した」というスタティックな記述は馴染まない。この記述方針そのものが、内的生成を「外部的に」しか見ていないからだ。


内在的な蘇生や生成というモチーフの片鱗には、関水氏自身が触れている:

 社会とは、互いに異なる生活史をもち、それぞれの異なった関心をもつ生きる人びとが、ぶつかり合いながら、合意を形成する進行中の過程である。(本書p.365)

まさに過程なのだ。
社会学の言説は、その《過程》を扱うことがきわめて不得手に見える。*9



個人的に

本書冒頭には、2001年の拙著からの引用がある。読みながら15年前に、そしてこの15年間に直面させられた。「ひきこもりはどのように語られてきたか」を80年代から見直す章もあり(補論II)、30数年の記憶の断片を再組織する読書でもあった。

「ひきこもり」という語は、私に対しては、もはや害をなすことが多い。

私がこの語に深く関わったことは事実で、その履歴は消せない。しかしあの状態は、試行錯誤の《入り口》であって、私の看板として固定されるべきものではない。*10
私はいま、《時間的に検討する技法の問題》という切り口を手にした。それは引きこもり問題に大きな貢献ができるはずのモチーフだが、ひきこもり問題に監禁されるモチーフでもない。――そういう個人的な整理のために、本書をこの時期に読めたのは大きな収穫だった。



*1:悩む本人サイドのあれこれに興味のない方は、生活保障のありかたを《市場・政府・家族》の切り口から検討した第二章だけでも通読されることをおススメします。

*2:社会学だけではなくて、そもそも《理論》そのものの地位の問題だが。

*3:1990年代から言われていることだが、たとえば「白人男性よりも黒人男性が、黒人男性よりも黒人女性が、黒人女性の中でも難病患者が…」という具合に、マイノリティ性をより色濃く持つほうが《より尊重されるべきである》というバカげた連鎖。

*4:多文化間精神医学会の学会誌『こころと文化』掲載の拙稿「動詞を解放する技法」は、このあたりの事情を扱っている(参照)。この件はさらに詳細に検討してゆきたい。

*5:本書では何ヵ所かで勝山実氏への肯定的言及があったが――勝山氏の問題も、名人ポジションの無時間的・理念的な固定にある。彼の自己肯定は、時間的変動をともなった周囲との権力関係を無視しているのだが――それが自己肯定のふるまいを無時間化したうえで固定しているために、これまで極端な自己否定しか知らずに来た人からは、一定の支持を得ることになる(「救われた」など)。しかし、自分を「名人」と名乗る勝山氏は、周囲を自動的に「弟子」として扱うことになる(私は現にそういう苦情を言う引きこもり経験者に出会っている)。勝山氏の言動は、たんに無時間的な、唯我独尊的な自己肯定であり、周囲との交渉関係への動的配慮を欠いている。▼動的に変動する関係のさなかにある存在を、いつの間にか《当事者》と名詞化し、これを不当にも「絶対的に」肯定して見せることで、左派はおのれの正当性を手に入れる。勝山氏の主張は、そのような左派のフォーマットと共犯関係にある。――勝山氏は、いわば「当事者を崇拝するカルト」の、ひきこもり界隈における教祖を名乗ったような状態にある。

*6:私はここで「当事者」と名詞形で言うことに、不当さを感じる。やはり動詞的に「当事化」と言いたいが、それはあらためて。

*7:pp.267-269 では、3ページの間に15回も「状況の定義」

*8:【10月6日午前10時40分ごろの修正】最初のエントリ時に「第四章」と書いていたのを訂正した。

*9:過剰に静的でメタ的。まるで額縁に入れて飾るみたいに。

*10:本書「補論I」では、イアン・ハッキングやアルフレッド・シュッツの議論を参照しつつ、次のように論じられている(太字協調は上山)。
>《もともと人間の「状態」や「行為」を表していたカテゴリーが、「人間の種別」(人間の分類)を表すカテゴリー〔…〕へと転用される
>《もし彼が、賦課された異質な関連性の体系からみて、自分の私的な状況の定義のなかには関連性があるものとしては含まれていなかった社会的カテゴリーへと自分を位置づけるような、そうした固有の特性ないし特徴と、全体としての自分自身を同一視するように強いられる場合にはどうであろうか。その場合彼は、もはや自分が自分自身の権利と自由をもった人間とは扱われず、類型化された部類のひとつの交換可能な代物にまで貶められていると感じる。彼は自己自身から疎外されており、類型化された特性ないし特徴の単なる標本にすぎない。彼は、幸福追求への自らの権利を奪われている
(後者はシュッツからの引用。本書pp.105-106)