「がんばった人こそがヤバい」という矛盾

10月25〜26日は、横浜にいました。

    • 【10月25日】 (1)フランスから短期で来日中の、「日仏ひきこもり比較研究」をされているチーム(参照)と、 (2)関東で10年以上、ひきこもりに関する討論サークルや読書会、親の会などを継続されている皆さん(参照)が出会う場に、同席*1
    • 【10月26日】 上の(2)にかかわる皆さんと、議論の集まり。私のレジュメを参照しつつ、他にも様々な点を論じました。


診断上の「グレーゾーン」

はっきり「病気・障碍」と位置づけられれば社会保障の対象になるが、ひきこもりのように診断学上の位置づけが難しい場合、保障の対象になりにくい。

そこで何が起こるかというと、とにかく明白な障碍者役割を手に入れた人から救われていき、自助努力を試みてしまった人たちこそが、命の危険に晒されるということ。

  • あるいはこうも言える。
    • (a)「保守的な左翼」は、社会保障の獲得を指南する。
    • (b)ひきこもりのメカニズムに内在し、努力の処方箋を提案しようとした人は、過激な革新派にならざるを得ない。



努力というのは、やみくもに不安定就労を要求するようなもの*2に限らない。
単に社会保障に頼ろうとするのではなく、かといって単に雇用されることを目指すのでもなく、自分たちなりの処方箋を編み出そうとしただけで、「障碍者年金や生活保護を取ろう」という戦略と矛盾してしまうのだ。努力してそれなりに成果を出してしまうと、「この人には本当に無理」というアリバイ作りが、難しくなるので*3


今回の横浜行きはそれ自体として素晴らしく楽しく有意義だったが、
私のような提案(いわば集団的な自助努力)が、「障碍者役割をゲットしよう!」という運動とバッティングしかねないことに、あらためて気付かされた*4


日本で不登校運動が高まりをみせてから、そろそろ25年がたつ。ということは、当時学校に行けなかった10代が、あのとき運動を起こした親たちと同じような年齢になったということ。
さてそこで、このまま「親・専門家が子供を支援する」という図式で行くのか。それとも、別の形を模索するのか。今はその岐路にある*5



*1:英語に堪能な研究者がお二人、通訳としてご一緒くださったのですが、非常に精密な訳で、素晴らしかったです。

*2:ネオリベ的自己責任論」など

*3:私は今、一方的に支援される 《観察対象 object》 から、自分たちで試行錯誤する 《主体 subject》 になろう(そこで起きる問題に注意深くなろう)、と呼びかけているのだが・・・

*4:私は本を出させていただいた後、2002年の春ごろにいちど本格的に破綻し、そこからなんとか方法を編み出してきたのだが、むしろ精神科医だけに頼り、自助努力を放棄した方が、私個人の安全だけを考えるなら良かったといえる。うかつにも自分で頑張ってしまったために、命の危険が高まっているのだ。

*5:安心ひきこもりライフ』の勝山実氏には、身近な関係性に関するモチーフがまったくない(「ひきこもり」という名詞形への居直り)。 ここで勝山氏は、硬直した左翼系当事者論のイデオローグとして現れている。私は、主観性と集団のアレンジを同時に検討したいので、立場は明白に対立する。 ここで勝山氏に向けている批判は、私が斎藤環氏に向けた批判(参照)とまったく同趣旨であることに注意。】