「望まざる隠遁?」と可能な選択肢

id:Ririka さんの「《他者》のつぶやき…」およびそれへのコメント欄でのみなさんの応酬から、問題が少しクリアになった(僕も「人文的応答関係と経済的応答関係」という観点で一回書き込んでいます*1)。
僕はヒキコモリに関して、「降りるしかできない不自由」と言ったのだが、これは社会的にはやはり「降りたい奴が降りた」ことになるのだろうか。つまり「自由な選択権の行使」であると。


身体障害や精神病は「なりたくてなる」ものではない(つまり自由意志は介在しない)が、ヒキコモリはその辺が微妙で、だから「自己責任」問題が発生し、「責任取れ。社会保障をあてにするな」という話が常につきまとう。
「ヒキコモル以外の選択肢はない」というのが当事者たちの主観的理解だと思うが、果たして本当に「他の選択肢はない」と言えるかどうか。――その辺がネックなんだと思う。
当ブログでは何度か問題にしたが*2、ヒキコモリは当事者にとっては不可避の選択であり、主観的には「〜できない」「働けない」という「障害」として意識されている。ところが、それは第三者からは(つまり社会的には?)「自由意志による選択」と区別がつかない


別の選択肢を用意すれば、つまり環境が変われば障害は障害でなくなることがある、という「バリアフリー」の観点に立ちたいが、しかし「ひきこもり当事者のためのバリアフリー」とはどのようなものか。ひとまず経済的には、資本主義しかない。
「別の選択肢」として、北朝鮮イスラム圏を考え得るだろうか。現実的とは思えない。あるいは武者小路実篤の「新しき村」? 僕はずっと地域通貨に興味を寄せているが、これも「別の選択肢」を探してのことだと言える。
僕は先日から「餓死」を問題にしているが、これも「家を出て働くよりマシ」という仕方で「選択した」ということになる。いくらお粗末でも、あるいはいくら受動的でも、「選択した」ことになる*3


要するに一種の「ユートピア」、理想郷を模索し実現しようということだろうか。
社会学の議論には「再分配」というテーマがあるらしい。冷戦時代までは「資本主義か共産主義か」という二者択一だったのが、「資本主義の勝ち」になり、しかし資本主義だけではあまりに非人間的なので、「たくさん稼げる人からぜんぜん稼げない人へ」富を分け与えましょう、というような話だろうか*4


僕は今まで社会学にはまったく興味が持てなかったのだが(単純な話、それが社会をどう変えられるのかまったく見えなかった)、ヒキコモリについてしっかり考えるならば、問題設定としては社会学的な話になるということか*5


当然だが、理論武装は同時に具体案の提出に結びつかなければならない。そこが難しいわけで、だからこれほど社会学に注意を向けつつも、勉強に没頭する方向には、なかなか行けないわけですよ・・・・。『波状言論』の北田鼎談でも、「考えても状況は変えられない」みたいな発言があったし・・・・・本当にそうなら考えても意味ない・・・・・。
僕はヒキコモリ関係者(当事者・親たち・支援者)からよく「考えすぎだ」って言われるんですよ。「不必要に自分を追い込んでるだけ。もっと自然体で生きなさいよ」みたいな。本当にそうなんですかね・・・・・「考えてもしょうがない」んでしょうか。
何度も言うけど、放っておいたら黙って死ぬしかないと思うんですよ、僕自身が。 「気合入れて頑張れ!」「できないなら死ね!」しかないんですかね?>この世。


「日本社会は断片化し、それぞれが島宇宙化している」とか言われながら、実は少数派は極端に生きにくい社会のままだ、というのがここ最近露呈してないでしょうか。ちょっと政治や経済の状況が危機的になったら、ヒキコモリ当事者なんて真っ先に遺棄(@宮台真司)されそうです。この社会で、理由はよくわからないがなぜか「他者」になってしまった個人は、やはり命懸けなんですね・・・・。


ひとまず僕としては、理由はどうあれヒキコモリ当事者がこの社会における「経済的他者」*6にならずにいるにはどうするか、という点を中心に考えたいし、逆にいえばその点さえ解決すれば他の問題はクリアできたということにならないか。 → つまり「経済的に排除されてしまう」という事態には、それ以外の排除の要因がすべて詰まっている。
うーん・・・・しかし「単なる失業者」をわざわざ「経済的他者」なんて言う必要あるか? 失業者は「経済的応答関係」に参入できてはいないが、「資本主義」からは「降り」ていないもんな(というか降りられない)。
というわけで、「失業者」と「ヒキコモリ」の違い、さらに言えば「障害者」との違い――そのあたりで考えて具体案を練る必要があるでしょうか――ってそれすでに考えてきてることなんですが、難しいですよ。ヒキコモリというのは、単なる失業者であるはずのくせに主観的には障害を抱えている。かといってでは社会的に障害者と認定してもらえるかといえば、「自由意志で選択的に社会関係から降りたのだから、自己責任で」と言われる。労働者としては障害を抱え、障害者と認定されるには瑕疵*7がある。


社会的な罵倒と戦いながら、同時に経済生活も生み出していかねばならない。
「やればなんとかなる」と思ってやってみるしかない。


いかんね、笑いがないよ、笑いが。





*1:「不利益があってもそれを選ぶのか」というリクツの問題としては、「人文的」と「経済的」を分ける必要はないということですね。

*2:上の方で「障害」で検索してみてください。

*3:主観的には「決断した」覚えは一度もなくても、社会的には「選択した」ことになるのだろう。 → ちがう?

*4:間違ってたらご指摘お願いします・・・。

*5:某思想家や某精神科医が「ひきこもれ!」みたいな発言をしているが、この程度の問題意識も持ち合わせていないんじゃないか。閉じこもる以外の選択肢を持たない人間が社会保障もなしに閉じこもり続けたら、死ぬしかなくなるでしょうに。「いつか働ける」というのは楽観的すぎる。「死んでもいいじゃないか」というなら一貫しているが。

*6:変な表現ですが、「制度の他者」「規範の他者」などという表現が『責任と正義』にあるらしくて、僕はそこから「社会と価値観を異にしている」という意味での≪人文的他者≫、「経済社会に参入できない」という意味での≪経済的他者≫を考えました。そういう問題設定が「ヒキコモリ」を考えるために必要だと思って。 → アホなこと言ってたらご批判ください・・・・。

*7:瑕疵:かし。「権利認定のために必要な条件を満たしていない」という意味で法律用語を流用してみたんですが、変?