流動性の激しい「脱聖化された分業世界」 → 自己管理のテクニックは?

昨日のコメント欄に、「単なる順応主義に現実はあっても真実はない」「精神的に干からびるか、肉体的に干からびるかしかない」というお言葉をいただく。これはヒキコモリ当事者の多くが苦しむポイントだと思う。
波状言論』の宮台鼎談に「真理クン」という罵倒表現があったが、学問的真理の追究も含めて、僕は自分の生の時間を何らかの「プロジェクト」にしおおせようとしている、そういう面が確実にある。何に向けてのプロジェクトか。「生きている時間をプロジェクトにするプロジェクト」。ブラックジョークのようだが今はそんなふうにしか言えない。
それは、僕にとっての自己管理の条件かもしれない。「真理」は必要ない(というか、信仰の持てない僕は「真理」を前提にできない*1)が、生活の中に発展的要因がないとダメ、というか・・・・。


だが(これも宮台鼎談のテーマだったが)、プロジェクトは流動的な世界のただなかにあって、この流動性に耐えながら持続していかなければならない。ドライで完全に脱聖化された「機能性」しかない世界。分業が徹底的に進み、「相互手段化」が極限まで進んだ社会。――「そこにしか棲めない」(選択肢がない)ときの、自己管理のテクニックは。


月並みだが、「この人と付き合っていきたい」と思えるような人間関係が支え、というかヒントになる気がしている。常に変わらぬ核のような存在。相手の症候的な核との付き合いにおいて、生きるプロセスが目的になる*2
自分を、ある真理が実現するための、あるいはある変化が実現するための媒介にしようとすること。同時に、そのプロセス自身が目的になっていること。
これは青臭い実存談義ではなくて、「生を持続させるための方法論」のもんだいだ。「やりたいことを仕事にする」という指針が単なる青春ごっこではなく、競争に勝ち抜いたり持続的に自分を維持管理するためのテクニックの1つであり得るように。


個人としては内面的自己管理のスタイルを考えるとして、あとはそれが社会的にはどう支えられるのか*3、という問題なわけですが。



*1:強いて考えうる別の指針は「美」と「快楽」か。でも「美」はまだよくわからんし、「快楽」だけでは僕は頽廃すると思う。

*2:「つきあう」というのは、goal(最終目的地)ではなくて aim としての「目的」だろう。つまりプロセスが目的になっている。

*3:ただしLETSなどの「新しい決済システム」のことを考えるときには、僕は「社会的なものの設計図が内面管理に与える影響」という視点を重視しますが。 → 斎藤環『ひきこもり文化論』ISBN:4314009543 p.169〜に少し書きました。