「順応力の育成」しかないのか

ヒキコモリ当事者を、「自己責任」や「ヘタレ」の論旨で罵倒しても始まらない。あるいは逆に、当事者が「自分で望んでこうなったんではないんです」と主張しても「真性/詐称」の区別がつかないし*1、「私でもやっていけそうな労働環境を」と懇願しても、選択肢は資本主義しかない。
どう転んでも生き残る道がないような気がしてくる。


苦しんでいる人間の存在を「社会の症候」と見るのは陳腐だが、有効性も残っていると思う。ただし、「社会が悪い」と言いつのっても何も変わらない。「ヒキコモリは資本主義の犠牲者だ」とばかり言うのも、「イデオロギー的主張のネタ」にされているようでいただけない。
目の前にある(あるいは自分が生きている)苦痛を、「何を温存し、何を変えるのか」「何が必要なのか」を考えるきっかけにすること。つまりまさに、苦痛を「問い」として受け止めること。
「今ある選択肢」の中から、自分が選べそうなもの・耐えられそうなものを徹底的に探す。どうしても見つからなかったら、自分で創るしかない。あるいは、変えるしかない。


自分という存在や「自分の必要とする選択肢」が社会のルーチンの中にないなら(その結果自分が脱社会的存在になっているなら)、環境に働きかけて自分の居場所(選択肢)を自力で作り出してゆくしかない。
だが厄介なことに、ヒキコモリはこうした能力の欠如から起こっている面が大きい。環境に働きかける政治力・交渉力・企画力*2のセンスは、まさに「社会的な能力」と言えるが、≪孤立≫を基調とするヒキコモリ当事者には、そうした能力やセンスが決定的に欠落している。 → 少なくとも、その育成が1つの課題になる。


「順応力を身につけさせる」援助はたくさんあるが、政治力・交渉力・企画力を養う支援はあまり聞かない*3
社会生活から脱落し、経済生活を送れなくなっている人間の苦痛を問題にしているのだから、それを「政治」という言葉に結びつけるのは不自然ではないと思うのだが、言葉として強すぎるだろうか*4


「必要なのはお金なのだから、『政治・交渉・企画』などとムズカシイことを言わずに、要するに『良き社員・良き商売人』を目指せばいいじゃないか」――というのも1意見だが、これだと「問い」が功利主義に回収されてしまい、ヒキコモリに必然的にともなう倫理的な問いが脱落してしまう。
ただ、以前に当ブログでも検討したが*5、「持続的に仕事がしていける状態に落ち着ければそれでいい」というのもまた確かだし、というよりはそこを基点にした方がいい。


「社会に自分の居場所を作る」ことは、「自分に必要な選択肢に市民権を与える」ことではないだろうか。それはすごく時間のかかる、地道な活動だと思う。――ところが、僕らは目の前の生活費を稼がねばならない。
さあどうするか。



*1:ここに、ヒキコモリが公的支援の対象になることの難しさがある。

*2:実はこうした能力を基礎づける最も重要な要因は≪欲望≫なのだが、ヒキコモリ当事者にはそれも欠落している。というわけで本当に致命的。 → 支援は「おせっかい」でさえある。僕は自分の欲望にしたがって動くしかない。

*3:イデオロギー的洗脳」と「政治力を育む」はちがうと思う。

*4:あるいは、アカデミックには変な言葉遣いなのかな。

*5:ページの上の方から「失業者」で検索してみてください。