ヤバイ話題

餓死する働くワガママ社会保障、といった話題はとても熱くて、各人の心のツボをついてしまうのだと思います。ヒキコモリにとって、最も致命的でヤバイ話題というか。何人もの方が書き込みをしてくださいましたが、それぞれの意見の背後には、たくさんの同調者がいるのではないでしょうか。意見のすれ違いもあったようですが、議論そのものはとてもクリティカルなところに差し掛かっていると思います。
私自身も議論の一参加者でしかないのですが、私なりに気付いたことを列記して、今後につなげたいと思います。

  • 誤解が多いようなのですが、「ベーシック・インカム」というのは、国内の成人すべてに対する支給制度であって、一部の人だけに支給される限定的な支援制度ではありません*1。ですから、この制度に関しては、「支給される人間は甘えている」というのは論点としておかしいと思います。「制度としてムリがあるだろうか」という議論でないと。


  • 引きこもっている人、あるいは仕事をしていない(できない)人が社会保障について考えたり制度を生み出したりしようとするのは、それ自体が利己的なワガママだ、という意見があるかもしれない。しかし、それでは社会的に追い詰められた人間の為す「変革に向けての提案」は、すべて「自分たちのため」でしかないのか。
    • たとえば差別されている人間が「差別反対」を叫ぶのは、利己的な行動でしかないか? そうではないはず。
    • ただし、ヒキコモリやニートには、「働ないのか、働ないのか」(不能性・自由意志・努力*3)をめぐる微妙な問題があるので、「生まれによる差別」(本人の意志や努力とは関係ない社会的排除)とは違う事情がある。


  • 先日、「自分を変えることと環境を変えること」が話題になりました。「自分を変えようとしないで環境を変えようとするのはワガママだ」というわけです。すなわち、「苦しくなっているのはお前の個人的事情だ、自己矯正しろ」と考えるのか、「この苦しみに取り組むことを通じて社会を変えよう」と考えるのか。
    • タメ塾の工藤定次さんは、「ひきこもりの青少年たちは、社会的経験の穴を埋めれば、自分の力で十分に生きていける存在である」と語っています*4。つまり当事者たちは、広い意味での≪訓練≫によって社会に順応していくべきだし、社会を変革する必要があるとしたら、「訓練の機会を与えるべきだ」という点についてのみである、ということでしょうか*5


  • この場合、≪訓練≫という言葉で何を意味するかがとても微妙で重要です。たんなる順応・適応(つまり自己暗示と洗脳)努力なのか。「自分なりの怒りや問題意識を主張し、状況を改善していく交渉能力」まで含むのか。
    • id:sivad さんが「社会学より政治学法律学が重要」とコメントくださっていますが、これも「訓練」をめぐる意見でしょう。僕らは、自分に向けて何をどのように訓練すべきなのでしょうか。
    • 「生きていても死んでいても同じ。生きることがこれほど苦しく、働くことは拷問のように苦しいのだから、≪生き延びるために働く≫なんてあり得ない。働くぐらいなら死ぬ。というかさっさと死にたい」という声。いっぽう、「生/死」の環境をめぐって、忍耐や改革の努力を続けよう、という声(「死という選択肢を選ばざるを得なくなっているのは、そのような貧困な環境しかないからだ。だから、環境改善の努力をしよう。選択肢を増やす努力をしよう」)。生きようという欲望と、それを取り巻く環境。為すべき努力。
    • 僕自身は、まだまだ苦しみを抱えているとはいえ、5年前に比べると格段に社会的な能力が身についたように思います。それはやはり「小さな成功体験」と訓練の賜物といえる。ただし、それは「自分にやれそうな選択肢を見つけた」ということでもある。(選択肢が見つかっていなければ、やはりムリだったかもしれない)



不能性・自由意志・欲望≫と、それを取り巻く≪環境・選択肢≫。その2つを結びつける≪努力・訓練≫



*1:5月5日のコメント欄にも少し書きました。

*2:それをめぐる裁判については先日触れた

*3:まさに「就労苦ホームレス訴訟」の争点です。

*4:『脱!ひきこもり』ISBN:4939015645 p.5

*5:工藤定次氏は雇用・能力開発機構の「ヤングジョブスポット」(若者向けの就労支援施設)の立ち上げに尽力されていて、こちらのHPにあるこの写真、ちょうど中央に写っている半袖シャツの白髪混じりの男性が工藤さんだと思います。