「制度を使う」ことと法律

  • 社会生活にはトラブルがつきものだから(参照)、小学校時代からリーガルマインド(法的思考)を少しずつ訓練しておくべき。法律談義を導入した紛争処理というのはたいへん traumatic な作業であり、長期的に馴染んでゆく必要がある。それをしないでいきなり裁判員制度を導入し、しかも最初から重大犯罪を担当させるというのは、何を考えているのか。医療でも司法でも、トラブルに対処するのは専門技能と言える。警察官でも、新任の方はひどい現場を見てしばらくスパゲッティを食べられなくなったりすると聞く。そんな物証と法律論に、何の訓練もなしにいきなり従事させるのか。
  • 逆に言うと、社会生活に入るためには、法律談義への一定の習熟が必須。 「ウェブと著作権」等の最先端の法律論も必要だが、それ以前に、ベーシックな憲法民法・刑法などの最低限の知識が要る。
  • 法律が大事なのはわかる。しかしそれは「自分がいなくても回る世界」であり、なじもうとする自分は「利用される順応者」にすぎない。勉強をするより前に、自分が消えたほうがいいような気になる。 絶対的に現実存在するように見える《制度》と、そこに入門する自分の境界に臨床がある。
  • 制度と実存の関係を臨床レベルで問い直す「制度を使った方法論」(三脇康生)。 とりわけその《制度分析》の発想を知ったことで、これまでバラバラに考えていた法律論・現代思想PSWなどが、ひきこもり臨床と繋がりつつある(理論的にも実務的にも臨床的にも)。
  • ひきこもり臨床について、関係者各人の当事者性を強調し、「治療から交渉へ」と呼びかけた以上、交渉関係のディテールに付き合わなければならない。だとしたらそれは法律談義になる。思想的・臨床的葛藤を、法的思考と同席させる必要がある。抽象理論を、日本の具体事情や行政判断と交わらせること。
  • 「良心的に努力していれば、悪意には出会わないはずだ」という、根拠のない楽観主義があった。実際に私はひどい目に遭い、対応に失敗してきている。これでは駄目だ。 社会生活という traumatic な戦場に漕ぎ出すには、そしてそれを継続するには、法的思考がどうしても必要だ。
  • 警察行政や法律が対応できるのは、トラブル全体のごく一部。先端的な仕事を試みるのであれば、なおのこと法には期待できない。とはいえ、行使できる強制力は法の範囲内でしかない。 「法律に頼るな、個別社会の《掟》を重視しろ」という宮崎学の提言は、同時に「法律には徹底して詳しくなっておけ」というアドバイスでもあった*1
  • そもそも、実定法の勉強自体に臨床効果がある。 精神科的臨床効果を求めての法律学習。