「求職の意志なき失業者」?

ヒキコモリが「脱社会的存在」と見なされるとして、しかしそれは「本人が自分で選択して」そうなったのか、あるいはそうではないのか。あんがい大事な論点なのかもしれない。
人間はみな「自分の意志で生まれてくる」のではない。生まれ落ちたあとに、それを引き受ける作業が始まる。
生まれてしまった自分を引き受けられず、閉じこもるしかなくなったとき、それは「意志的に選択した姿」と言えるだろうか。社会学的には、そのように言うしかないということか。
引きこもっている人は、実は「失業率」にはカウントされていない。失業者というのは、「求職中であるが職を得ていない人」であって、求職活動をしていない人は「失業者」にはカウントされない。つまり「失業者」は「自分の意志に反して仕事に就いていない」のだが、引きこもっている人は「自分の意志に従って」職に就いていない、とみなされるわけだ。


単純な話、求職の意志さえ示せれば、「失業者救済」のスキームに乗れるということか。
「失業者」は、経済活動に従事してはいないが「経済システム」からは降りていない(仕事を求めているのだから)。ところが「ヒキコモリ」は、経済システムへの参加表明自体を放棄しているのだから、まさに「降りて」しまっている。とすれば、その経済システムの参加者向けに用意された救済メニューの対象にも、なりにくい。


「閉じこもるしかできなくなった」人間について、これまではその内面事情ばかりが語られ*1、引きこもりについてのシンポジウムでも、パネラーは精神科医やカウンセラー、心理学者ばかり。それはそれで必要な文脈だったのだが、今後考えるにあたっては、引きこもり当事者の抱えた事情が、社会的にはどういう存在であるのか、という観点から考えた方がよくないか。
具体的には、求職の意志を示すことさえできなくなっている人間に、「失業者救済」のスキームで対応できるか、あるいはそれをするべきなのか、という問題ではないか。


ヒキコモリという現象にはさまざまな苦痛や問題が伴うが、最大のハードルは「就労」であり、その持続である。逆に言えば、精神的苦痛や社会的排除などのほかの問題は、「継続的就労」に成功している時点で解決したことになる。
「失業者」の概念を広く捉え、その特化された一分野として「ヒキコモリ」を考えるのがやはり妥当だ、という気がしてきたのだが、いかがだろうか。


当然だが、そこには「自殺者対策」と似たようなジレンマがともなう。「死にたくなっている人は死なせてあげるほうがいいんじゃないか」。前にも触れましたが、けっきょくこのあたりの話になってくるんですね。
「救済を望まない失業者をどうするのか」*2。――というわけで社会学系の本を眺めているのですが、どうもよくわからん・・・・。





*1:社会学的な語りにおいてはそうではなかったのでしょうか。すみません、そちらの文脈については知らないです。でも、最近気になる「ヒキコモリ論」は、「社会学」の周辺から聞こえてきているようです。

*2:問題の立て方、間違ってるでしょうか。