各人の切実さ

id:Ririka さんところのコメント欄で「自由」についてのお話が続いていて、僕も少し発言した。ちょっと反省しているのは、僕は「経済的な応答関係」*1という自分の問題設定をあの場に持ち込んだだけだったのでは、ということ。
というか、そもそも「自由」「降りる」「応答責任」という言葉に皆が反応して、各々が自分にとっていちばん切実な問題設定を整理しなおした、ということだったのかもしれない*2。僕自身は、ああいう議論のフィールドを設定してくれたことに感謝している(寛大に受け入れてくださった皆さんにも)。


僕は自著(ISBN:4062110725)の中でヒキコモリ当事者を「政治的敗残者」*3と表現しているのだが、引きこもりは、「病気」というカテゴリーで考えるよりも、「負けている」というカテゴリーで考える方がよくないか。つまり、ヒキコモリについて考えるというのは、「医療」の問題というよりは*4、「戦略」の問題ではないのか*5
経済社会に参加できずにいる人間としては、引きこもり当事者はあまりにもナイーブで、戦略的に間抜けだ、という気がしている(もちろん自戒も込めて)。
今はまだ具体的な首尾が見えていないが、戦略的要因の一つとして、やはり理論的探求(というか少なくともお勉強)は必要かもしれない。これについてはまた考える。



*1:この点には杉田俊介さん(2004・3・31)も触れてらっしゃる。

*2:少なくとも僕にとってはそうだった。 id:Ririka さんご自身は、『責任と正義』の読書会をしたかったと思うんだけど・・・・。

*3:p.188

*4:「医療」の問題として考えること自身の戦略的意義については、これまでも何度か触れた。

*5:とかって書くとまた引かれるのかな。「戦略的」なんて言葉を持ち出すことの戦略的意義はどうよ、というご意見もあるよね。