「公と私」

宮台真司氏の『憲法対論』、魅力的ながら読み進むのにとても難儀しているのですが、ひとまず「公私接続の論理」を問いの機軸として、読む努力をしてみようと思います。
でも、「ひきこもり支援」について論じるのに、「公私」の話なんて必要なんでしょうか。 それこそ、苦痛緩和に関係ない「知的お遊び」なんではないか。
そこで、実際にこのテーマについて論じてみる前に、「そもそもそんな話は必要なのか」について、すこし考えてみます*1


拙著ISBN:4062110725 p.208 で、僕は次のように書きました。

 あるシンポジウムで、「ひきこもりの連中は≪自分≫を捨てていない、≪自分≫を捨てろ!」と言われたことがあります。 これは、「公と私」の問題を言っているわけですね。 「公」のために「自分を捨てる」ことを学べば、ひきこもりなどにならないはずだ、と。 ひきこもりはあまりにも、≪自分≫に執着してしまっている、と。



これは2000年の10月、僕が「ひきこもりの経験者」として、初めてシンポジウムのパネラーをさせていただいたときのエピソードです。 僧職に就かれているのか、スキンヘッドの男性が僕への質問のために発言し、「社会のため、国のために自分を捨てろ!」と叫んだのでした。 これで僕は、「ああ、引きこもりというのは、保守・右翼系から糾弾を受ける立場にあるんだな」 「実名を晒してしまっているし、うかつに引きこもり擁護の発言をすると、殺されるかもしれないな」と思ったのでした。 その場では、次のようにお返事したのを覚えています。 「ほかの当事者はどうかわからないが、私自身について言えば、≪本当に納得して自分を捨てる≫という体験を、実は切望している」 「必死にそういうテーマや対象(天職)を探している」 「さもなくば自分を支えられないと感じている」。


保守・右翼系からは「自分を捨てろ」と糾弾されるのですが、実は僕は引きこもり当事者たちからも、ここ3〜4年同じ罵倒を浴び続けています。 「元ヒキでしかないくせに哲学談義をして、≪プチ斎藤環≫の文化人気取り」 「ひきこもりという不幸体験をネタにした売名行為」 「当事者に寄生して稼いでいる」――いずれも、「いくらカッコつけても、お前の言動の≪真の動機≫は見え透いてるんだよw」という指摘です。 僕がひどい目に遭わされても(殺されても)、当事者たちは「それみたことか」と嗤うだけでしょう。
つまり僕は、どんなに頑張っても、「お前は自分の私利私欲のためにほざいてるだけだろ」と見られているわけです。


僕を罵倒した右翼や当事者が本当に「公」の立場にいるのか、はともかく、「私欲のために公的な利益を犠牲にしてはならない」という前提は、共有されているようです。
でも、考えてみれば、現在の経済社会は、「私欲の追及」に基づいて成立しているはず。 というか、「ひきこもり当事者」のメンタリティには、「私利私欲の追求」になじまないところがあって、だからこそ社会に入っていけない面がないか。
先日から「自意識の純潔」などと書いていますが*2、「無垢なる純潔」を譲らない(というか譲れない)という点において、僕はひきこもり当事者の内面に、危ういものを感じています(もちろん他人事ではありません)。


本にも書きましたが、「秘密のマネジメント」の下手さ、「泣き寝入り」体質*3、それに「社会的不正義に怒る」*4といった当事者のメンタリティには、「守るべきところで自分(や大切な人)を守れない」、「公的な正義を夢想しすぎるがゆえに、現実的な私生活を運営できない」という本質的な問題が見え隠れしています。
つまり「公私のけじめをうまくつけられない」というのは、ひきこもりを批判する側にとって重要な論点であるばかりでなく、当事者本人の内面生活にとっても、喫緊の問題ではないか。
現実に僕は両サイドから、「お前は公私混同している」と非難されているわけです。


「ひきこもりなんて自己責任(自業自得)なんだから、公的に支援するなんておかしい」といった非難も、「公私混同」を問われている。 当事者が「社会的弱者」だとしても、それへの支援は「公的には正当化され得ない」と。
当事者自身が社会的再デビューを目論むとき、自分の自意識のレベルでは、どのように問題解決するのか。 「自分が生きるために、妙な正義感は捨てる」のか。 「自分なりの努力は続ける」のか。 そもそも「自分の自意識を維持するために正義に固執する」のは、それこそ「公私混同」ではないのか。――といった各種の問題設定。 → それは、「憲法」「政治」などとの関係において、どう扱い得るのか。


「好きなことを仕事にしたい」 「天職に就きたい」という願望も、「お金(私欲)のためにすべてを犠牲にする、というような苦しみに満ちた生き方はしたくない」という認識の、おだやかな表現ではないでしょうか。 そしてほとんどの人にとっては、「やりたくないが、仕方ない」が全てだし、「働く喜び」があるとしたら、その中から探していくしかないのではないか(やりたいことを仕事にできる人なんてほとんどいない)。 つまり「私欲の追求」のなかに、わずかに光る「人のため」を探すしかないのではないか。


私が「ひきこもっていてはいけない」「侮辱・排除されるべきだ」としたら、それはどのレベルにおいてだろうか。 法律、ではない(ひきこもりは違法行為ではない)。 政治? 道徳? 「親が子供を扶養する」という個人的なイベントに、どうして他人が(「公」の顔をして)口を挟むのか → しかしそれを言うなら、公的な援助は期待できない? いや、そもそも「ひきこもり」は、本人自身が(エゴで)望んだ状況とは言えない――などなど。



*1:「『そもそもそんな話は必要なのか』という問題提起はそもそも必要なのか」という無限後退もいちおう視野に入れつつ。

*2:当サイトの最上部の窓で、「自意識 純潔」の2語を入れて検索してみてください。

*3:いずれも p.192

*4:p.148、p.208〜。 「自分をイジメた相手が公正に裁かれていない」という怒りもここに入ります。