「第三の場所」と《常連さん》

昨日(31日)、渡邊太(id:knot)さんのお誘いで、【「社会学*カフェ→それから」vol.2】に参加。
渡邊さんの社会学的知見を通じたお話、山納洋さんや参加者の方々の体験談・議論。日頃僕が関わっている人たちとはまったく違ったジャンルの皆さん。非常に刺激的だった。
話題としては、レイ・オルデンバーグの「第三の場所」という考え方、そこをめぐる社会的緊張感のありかたが新風の印象。「身内の馴れ合い談義」ではなく、「異質なものに出会う」という要素について。▼ひきこもり当事者およびその家族は、「家」と「仕事場」のことばかり考えているが、これはそれぞれ「第一」「第二」の場所に当たり、そこでは「インフォーマルな公的生活」*1という開放的な契機が、まったく見えてこない。

 適切な用語を求めて、我々は独自の用語を設定することにした――第三の場所という言葉は、「インフォーマル・パブリック・ライフ*2の中心となる装置」と我々が呼ぶものを指し示すために用いられる。第三の場所という言葉は、家庭と仕事の領域を超えた諸個人の、定常的・自発的で、インフォーマルかつ楽しげな集まりをもたらす、多様性に富んだ公的な場所を総称的に指し示すものである。*3

これは、「溜まり場」というフリースペースの機能にとっても重要な参考になるはず。
ただ、懸念もある。
ひきこもっている本人の生活空間は、「自宅(あるいは自室)」に局限されている。そこにおける問題意識は、「自宅 → 職場」に視野狭窄的に限定されている。これは実は、「カフェ的・サロン的な、《雑談》的トークの要求される場所」への忌避が関係している。【たとえば引きこもり当事者にとって、仕事上の最悪の苦痛は「仕事そのもの」ではなかったりする。多くの場合、最悪の苦痛は「休憩時間」にある。あの、「雑談しなければならない」時間の恐怖…。】
あるカフェには、地域住民の常連客が多いとする。するとそこには「常連の文化」が根付いていて、店に入っていけば、そこに「巻き込まれる」ことになる。――もっと言えば、「地域住民」とは、その全体が《その地域における常連さん》なのだ。だから引きこもりについて相談しようとする人の一部は、自分の地元の窓口ではなく、たとえば2つ向こうの街にわざわざ足を運ぶ。「相談しているところを見られたくない」からだ。
「インフォーマルな公的生活」において、「ネガティブな要素を身に帯びた(と自意識的に考えてしまう)人」の存在は、どのように受容され、あるいは(場合によっては自主的に)排除されるのだろうか。この社会の「常連さんたち」への負い目は、単なる「自意識過剰」だろうか。

追記

ほかにも、「仕事をする」「人間関係を作る」「一緒にやってみる」といったことについて、いくつもの示唆をいただいた。とりわけ、お金の絡んだ「経営」の問題意識を含む体験談(とそれをめぐるノウハウ)は、きわめて貴重だった。いますぐにすべてをフォローすることはできないが、追い追い取り上げてゆきたい。



*1:「インフォーマル」=「非公式な、普段着の」

*2:informal public life

*3:R.Oldenburg, “The Great Good Place”, Marlowe & Company, 1997, p.16。(渡邊太さん作成の資料より)