絶望的な「永遠の現在」

先日の固有名論の『探求Ⅱ』ISBN:4061591207 もそうでしたが、線を引きながら読んではいても、それは「目で追っていた」だけで、「読んで」はいなかった、そういう本ばかり…。 要するに、「自分の問題意識」の軸(というかテーブル)がはっきりしておらず、だから意識の表面で「知的に」は理解しているように思っても、それが自分の中の言葉と有機的にちっともつながっていなかった。


日本近代文学の起源』も、なにやら線を引いてありますが、何も頭に残っていませんでした。 それで本を取り出してボーッと眺めていたのですが、いくつか気になる記述が。

しかし、フロイトの説においてもっとも重要なのは、「内部」(したがって外界としての外界)が存在しはじめるのは、「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて」可能だといっていることである。*1

 ひきこもり当事者の内面生活も歴史的なものだ、と…。 その内面生活への処遇(「甘えている」云々)自体が、歴史的性格をもつ…。

 もともと一つの「原因」を確定しようとする思想こそが、神学・形而上学的なのである。*2

「ひきこもりの原因は○○だ」という論争が後を絶ちませんが、その「原因探求」の姿勢そのものが、一つの思想的立場なのですね。 「○○だ」という確定が立場を生むのではなくて、「原因を確定せねば」という前提自体がすでに(無自覚的な)立場選択の結果である、と。


柄谷氏の言い分を丸呑みすればいいと言うわけではもちろんありませんが、「当事者の内面事情や、それへのアプローチ自体が、歴史的に醸成された文化的な事件である」という視点は、大事なのでは。
僕自身、自分で非常に症候的だと思っていることの一つに、「歴史意識のなさ」が挙げられます。これはたぶん僕個人のもんだいではなくて、同時代の(それこそ「動物化した」)人たち全般の傾向なのかもしれませんが、自分の置かれている場所を歴史的な目で眺める能力が、極めて低い。 「歴史的な成果として現在の生活が営まれているのだ」という認識が、完全に蒸発している。


「動物的」が、「歴史意識なんて要らない」という側面を持つとしたら、ひきこもりに向かう人の意識は、「自分の個人史を、完結した一つの作品にしたい」(自分の人生を、目的論的な一つの歴史と化したい)ということでしょうか。 作品にする、という牽引要因がないと自分を維持できないのだが、「生活のための労働」にはそんなベクトルはないので、その欠損から自意識のすべてが瓦解する、というような。
「歴史全体」を意識しても*3そんなものはどうせ自分の手の届くところにはないし*4、何も変えられない。 自分が手を下して「歴史化=時間化」できるのは、せいぜい自分の人生だけ。 で、それを必死に「歴史化=人間化=作品化」しようとするが、うまくいかない――そんな感じか。


ところが非常に皮肉なことに、限界的なひきこもり状態は、まさに「時間意識の蒸発」として体験される。 1年前の≪今≫と、いま現在経験している≪今≫が、質的に完全に同じに見える(というか体験される)。 完全な絶望として体験される均質な≪今・今・今…≫*5が、無限に連なるように見えるだけ。 で、いつの間にか何年も経っていて、精神的にはまったく成長していないように思うのに、生理年齢は驚くような数字になっている。
→ 非常に特徴的なことですが、ひきこもり状態が始まった時点で、精神的成長と自覚年齢(「自分は○○才ぐらい」というセルフイメージ)は停止します。 たとえば僕だと、2000年春(31才)のセルフイメージはどう考えても15〜6才(不登校開始時の年齢)でした。 「ひきこもり」というテーマ設定ができ、それとの関連で社会的な活動(および責任)が始まって、急速に自覚年齢が実年齢に近づいてきた(まだ追いついてない気がしますが)。


つまり、どうも「歴史化=時間化」のためには、最小限の「希望」がなければならないのではないか。 ≪現在≫が、≪凍結された絶望≫でしかないならば、その「現在」は永遠に時間化されない。 放置された≪激痛≫の永続体験にすぎない → 継続に意義はない。
よく言われることだと思いますが、現代人に歴史意識が失われているのは、「意識してもしょうがない」、つまり「過去から連なる現在を自覚することによって、将来への自覚的展望を持つ」というようなことが金輪際不可能になっているからであって*6、そこに「歴史意識をもて」などと言っても、歴史オタクの説教にしか聞こえない。
「歴史意識を持たせる」最高の方法は、「希望(ビジョン)を具体的に示す」ことでしょう。 ビジョンを持てないなら、過去の想起は「ナルシスティックな自慰」か自虐、未来の想像は「電波系の妄想」か(やはり)自虐行為。 「希望がない」なら、「現在に棲む」がいちばん合理的*7。 そしてその≪現在≫が激痛の体験でしかないなら、それを体験している自分を抹消するのも合理的選択。


ひきこもり自意識の苦痛が「文脈(歴史)意識の持てなさ」に関わるとして、それが同時に「去勢されない」状態であるとしたら、次のように言えないでしょうか。 → 「去勢され、文脈意識を持てるようになるには、希望(ビジョン)が必要だ」。 的確に去勢されるためには、的確に希望を持てなければならない。
宮台真司*8ではありませんが、「安易な希望」を持ち続けるよりは、いったん完全に絶望した方がいいのかもしれない。 しかし、ひきこもりほど完全に無能力の中に落ち込んでしまい、「再起不能」としか言いようがなくなってしまえば、もう「絶望」という言葉を使うことすら嫌になる。 「絶望から出発しよう」というそのスローガン自体が、あまりに空しい*9、というか「本当はダメだと分かっているくせに希望を口にする」という自虐にしか思えない。


ひきこもり当事者(経験者)の「言葉のチープさ」は、この「絶望の周辺で言葉が蒸発してしまった」状態に見えます。 知的に考えることは「絶望」に太刀打ちできず、苦痛しか生まない。
希望なしに人を去勢する(歴史意識を仕込む)のは、拷問にかけるようなものではないでしょうか。 「お前はもう、ダメなんだ」という自意識をインストールするだけなのですから。





*1:p.48

*2:p.142-3

*3:「全体を意識できる」というのはもちろん空想的な思い込みですが

*4:「われわれ自身が、歴史的イベントそのものである」(われわれ自身が歴史の一部である)というのは、現代人にとっては空しい自己確認…。 認識したって何も変わらないんだから。

*5:『生き生きした現在』ISBN:4938427923 という本をよく見ていました。

*6:つまり「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)という意識そのものも終わった後を生きている

*7:自意識を、機能的に必要最小限に縮減すること。

*8:絶望から出発しようISBN:4901391305

*9:宮台氏の本に登場する「絶望する人」は、「恋愛もできて、仕事もできる、でもオレなんて代替可能なんだよね」というレベルに見えます(ちがう?)。 自意識の問題としてそれが「絶望」に見えてしまうのは分かるつもりですし、その自意識そのものはひきこもりも共有するものだと思う。 でも、「恋愛も仕事もできる」状態に「絶望」という言葉を割り振ってしまったら、(ひきこもりのように)「恋愛も仕事もできない」状態はどんな言葉で記述すればいいのか。 それともそれは、「脱社会的存在だから記述対象でさえない」のか。 「遺棄されるべき存在には絶望という言葉すらもったいない」?