去勢の受容

講演会での質問の失敗は、私にとって、去勢受容のきっかけになった。 どうしても言いたいことがあるのに、それがうまく言えない、恥ずかしい思いをした。 それは自分にとってどうでもいい失敗ではなく、「言いたいことがある → できない」という順番であり、単に抽象的な「成功したい」ではない*1


ひきこもりという話題は、私にとって、「殺されてでも譲れない」と本気で思えた唯一の考察テーマで、逆に言えば、そういうテーマでなければ、私は内発的に自分の誠意を構成することもできないし、まっとうに社会生活を送っておられる方々に、自分の意見を言う勇気も持てない。 私が、社会参加の努力を継続するには、この「一線を越えた思い込み」がなければ、動機づけとして無理だった。それは、私が意識的にあとから持ってきた動機ではなく、いつの間にか自分の中にインストールされていたものだ。
不登校」ではなぜか無理だった。不登校自体を肯定してしまうフリースクール系の文化は、自分の激しい否定性への欲求を満たしてくれない、というより、要するに私はあの体験に対する殺意のような情熱があまりに激しくて、安易にそれを肯定するような議論に居場所を見出せなかった。
情熱の火のないところで、去勢を語り得るだろうか。 社会順応ばかり考えたり、逆に全面肯定ばかり考えても、嘘がある。 本人すら戸惑うほどの激情を探り当て、そこに社会的な枠組み(言葉や制度の手続き)を検討すること。 それがなければ、去勢はロボトミーでしかない。 ロボトミーは、「ひきうけとしての去勢」ではない。


講演会を即座に文字化したのは、打ちのめされた機会をうまく活かそうという趣旨でもあった。 「できる必要のあることができなかった」という深い納得で、やるべきことに内発的なフレームができた。 怒りと恐怖に充満した自意識の殻が、一時的に別の形になった。
ひきこもり以外の話題では、私は断崖絶壁に囲まれて、途方に暮れるしかない。 能力がないという以前に、固執がない。 年齢的にも排除されているし、取り付く島がない。 (「取り付く島がない」というのは、なんと実感のこもった言葉だろう。)







*1:一般的抽象的労働ではなく、具体的に「これができるようになりたい(どうしてもその必要がある)」(参照)。