「残酷さが足らない」

ヒキコモリ当事者はある意味きわめて「素朴」なのだが、そういう素朴さは「ヒキは氏ねw」という悪意の強度に勝てない。当事者独特の残酷さを持つ必要がある*1

  • ヒキコモリが社会的に追い詰められていくことに抵抗するには、①思想的反論 ②経済的自立、の両方が必要。
    • 「経済的自立さえ果たせれば、難しい話は必要ない」、「この社会では、合法的に金を稼いでさえいればどう生きようが勝手なんだから」というのはそうかもしれない*2。だが、思想的な議論の意義をまったく認めない当事者は、戦略的な意識というものをまったく持てていない。繰り返し言う。戦略的な意識を持てない当事者が多すぎる。社会的弱者であり、政治的敗北者であるというのに。
    • ヒキコモリ当事者への干渉主義的(パターナル)な批判は、それ自体が思想的態度だと言える(自分が直接養っているのでもない人間に「お前の生き方ではダメだ」と言っているわけだ)。また、経済的自立が難しい理由には、年齢差別などの社会的バイアスも影響しているはず。 → ボーッとしていてはやられる一方じゃないか?


  • 当事者の窮状を個人レベルのダメさ加減に還元する思考自体が一つの思想だ。
    • 「現在」しか見ない目にはヒキコモリが無歴史的な永遠の相のもとに見えるかもしれないが、やはり歴史的・社会的な側面も持つはず。
    • 「30才以上のヒキ?終わってるだろw」という言い分は、年齢差別に加担して絶望を煽っている(誰かを見下して楽しみたいだけ)。 → 「年齢差別という厳然たる現実」から絶望して終わるのか、それともそうではない何かを模索するのか。「自分はもう生きていけない」という絶望自身が社会的に形成されている面もあることを考えるべきではないか。
    • もちろん、「ヒキコモリの連中は、自分で稼げもしないくせに口ばかり達者」という意見もわきまえた上で考えるべき。稼げずに社会的弱者に留まっている状況を変えるには、具体的に稼いで生きていける状況を作らねばならず、そのためにはコミットが必要だ。




*1:僕が思うに、この「残酷さの欠如」は、ヒキコモリ当事者における笑いの文化の欠如に症候的に現れている。「笑い」には、自己と他者を突き離す残酷な視点が不可欠だと思うのだがどうか。

*2:これについては異論があると思う。「経済的自立を果たしていても思想的反論が必要な局面はある」。だが、「生き延びることさえできない」と苦しんでいる人間からすると、それは少々迂遠な言い分だ。ヒキコモリ当事者にとって「経済的自立」こそが最大の難関なのだから、それをクリアしていることを前提にした議論は他人事に聞こえてしまう。――ただし、思想的反論自体が積極的社会参加のモチベーションになって人生を牽引することだってある。ややこしい。