4月15日の id:noharra さん、cyotukan さんのコメントから刺激を受けて*1。
非常に身もフタもない話なのですが、人間は思春期においては自己内部の衝動(実存)に突き動かされ、社会に出て以後は外的事情(生活の要請)に振り回される。もちろん思春期にも社会的要請はあるし、成人以後にも内的衝動はある。しかし、やはり年齢とともに「食っていかなければならない」が圧倒的要請になってきて・・・・。
さらにしつこく弁明しておけば、そもそも幼少期に生活の心配をしなくてすんでいた、という時点でものすごく恵まれていますよね。――つまり何が言いたいかというと、「生活の要請」に奴隷的に従うのがまず最初であって、そのレベルをクリアできずにいる間は「自由に考える」ことができない、ということです。
先日の「韓国会議レポート」でも少し触れましたが、ヒキコモリは、年齢が若く親に扶養能力がある間は「価値観」の問題ですみますが、時間経過とともに単純に「食っていけない」という話になる。
いや、・・・・よく考えれば、若い間の葛藤にも「自分は食っていけるのか」という経済的不安はあるし、高齢化しても「生きていてもしょうがない」などの実存的な悩みがあり得る(年齢差別や「履歴書の空白」への差別など、文化的・社会的排除の要因は大きいが)。
さきほどNHKの『TR』(トップランナー)という番組に歌手のUAが出ていて、
歌うことの意味なんて考えたくない
と言っていました。僕は彼女の楽曲的価値はまるでわかりませんが、幸せそうに歌う姿や伸びやかな声を聞いていると、「この人は、歌うために生まれてきたんだなぁ」とか思います。才能のある人だな、って。
本人は内的な幸福感にしたがって努力した、その結果社会に受け入れられた――不登校やヒキコモリの当事者はいつもそういう展開を夢見るのですが、親世代や社会人からは「甘えたこと言うな」と言われる。「この社会ではやりたいことを仕事にしている人なんてほとんどいないんだよ」と。「≪誰もやりたくないようなイヤなこと≫をやるからお金がもらえるんだ」とも*2。
内的な衝動が、自分を外的な事情との出会いに導いてくれる人はいい。しかし、逆に「内的な事情ゆえに、外的な事情との齟齬を生んでしまう」人は?