「たたかう」という要因

この社会に居場所を獲得できた人は、たぶんどんな人でも「戦って」いるのではないでしょうか。そうして、ヒキコモリの人が居場所を失い、親に扶養される形でしか生きられなくなっているのは、要するに「負けた」ということではないのか。――だとすれば、「生きていく」ためだけでも、とにかく「たたかう」要因を生きなければ、どうしようもないのではないか。
最近は「負け犬」*1などという言葉が流行ったりして、「勝ち・負け」で人を見下して安心したい人がたくさんいるということでしょうか。そういう人たちから見れば、「ヒキコモリ」というのは究極の侮蔑対象なんでしょうか。
問題は、差別されたり追い詰められたりしている人間が自分たちの窮状について異議申し立てをしても、それ自体が「負け犬の遠吠え」「ルサンチマン」などと言われてしまうことです。改革要因としての≪怒り≫≪苦痛≫の要因が、社会的には≪嫉妬≫のスキームで処理されて終わってしまう。


マルクス主義や宗教や、あるいは安易なイデオロギーに依拠するのではない、自分オリジナルの「たたかい」、失地回復の試みが必要な気がしてなりません。――もちろん、「たたかう」ことそれ自体が一種の「コミット」であり、それがなくても生きられる状態が望ましいのですが、現実にはそれは不可能ではないか。ここまで実情がこじれてしまっては。
何を相手に、どういう論点・スタイルで戦わねばならないのか、はまだよくわかりません。でも、自分はいったい何に腹を立てているのか、なぜこんなことになってしまうのか、については、自分なりに洗練する必要がないでしょうか。そしてそのためには、言葉を交わしてゆく必要があるのでは。


北田暁大さんの「制度の他者」、宮台真司さんの「脱社会的存在」という言葉については、ヒキコモリという現象と関連があるとは思うものの、すでにそれぞれに固有の議論の文脈があるようです。


戦わねば生きていけない、としたら、「自由に考える」その内容も、その外的なシチュエーション(≪敵≫)に左右されるわけですよね・・・・。負けたまま、たたかえないまま、黙って死んでゆくのか、それともそうではない何かなのか・・・・。
「たたかう人」として自立せよ、ということなんでしょうか。――でもねぇ、会社の売上を伸ばすために戦う、とかいうのはともかく、得体の知れない(まさに「不気味な」)たたかいを画策しているとなったら、それだけで社会から排除される、あるいは雇用の対象ではなくなってしまうよね・・・・。その状況そのものと戦わねばならんということかな。
うう、ドンキホーテの香りが・・・・。
でもじゃあ、死ねということか。




今日の話、まだまだ続きます。





*1:30代で結婚していない女性をこう言うとか。若い女性を結婚・妊娠に向けて動員するための無自覚的プロパガンダなんでしょうか。ひどい話です。