今日、やしきたかじんの「そこまで言って委員会」という番組をチラッと観たのだが、「日本の戦後教育は正しかったと思いますか?」の問いに出演者全員が「いいえ」、そこからの話の流れで「最近は働かんと家に閉じこもって親に養ってもらう若い奴がたくさんおる」という話に。「そういうクズみたいな若者がたくさん出てきてるのは、家庭や学校の教育が間違ってたからや」ということなんだろう。
この番組、三宅久之(政治評論家)、西村眞悟(衆議院議員・民主党)などが常連で、宮崎哲弥、金美齢、桂ざこば、橋下徹(弁護士)、ハイヒール・モモコといったほかの出演者たち*1も、「左翼批判・常識擁護」という姿勢を基本的に保っている。そう、「常識」擁護・・・・。
番組全体が、つねに「左翼的でゆき過ぎた物の見方」に批判的で、これは要するに視聴者の側にそういう番組を待望する鬱憤がたまっている、ということではないのか。
ヒキコモリ批判に、「だからどうした」と黙って居直りを決め込むことはできるだろうか。僕は難しいと思う。まず、家族が責められる。本人が外の世界とつながりを持とうとする努力は、ヒキコモリを非難する社会の目線によって徹底的にくじかれる。人間関係を作ることができないし、なんとか仕事をしようと思っても、「あいつはヒキコモッテいたんだってさ」という風評が、就労の機会を徹底的に奪う。
生き延びようと思うなら、当事者が自分たちの状況をどのように社会的に説明し、再チャレンジの努力をするのか、真剣に考えるべきではないか。私たちは本当に、「死すべきクズ」でしかないのか。
引きこもりへの批判に対し、「プライバシーには触れないでください」だけで済むだろうか。わざわざこの問題を議論することは、「寝た子を起こす」ことでしかないだろうか。放置すれば、「常識」の圧力に負けて、いま以上に社会から排除されてしまうのではないか。
電車に当たり前のように乗れる人からすれば、「電車に乗るのがつらい」というのは、「甘え」と見えるだろう。苦しみながらも何とか頑張って仕事をして生きている人は、自衛のために閉じこもっている人を「甘えている」と見なすのだろう。「働くより死んだほうがマシ」と言っても、「じゃあ死ねばw」でしかないのだろう。
NHKの特集番組などで、「当事者は苦しんでいる」という認識は広がりつつある。でも、苦しんでいる人間がその心情を吐露しても、かえって反感を買い攻撃を受けることがある*2。あるいは、「当たり前だ、生きるのは誰だって苦しいんだ」で終わらないか。
僕の努力に対して共感的な理解を示してくださったある年配女性*3は、「戦わなきゃ」と言ってくれた。当事者に苦しみがあり、事情はさまざまであっても、「戦わなければならない」という事情だけは、皆いっしょなのではないか。
ヒキコモリには差別や非難があるし、そもそも対人交渉が苦手な人が多いから、ほかの人に比べてスタートラインはずっと後ろかもしれない。それでも、なんとか自分のオリジナルの戦いをすること。自分の事情を説得的に説明しつつ、かといって、それが単なる言い訳になっていないこと。対話的な関係を目指すこと。
差別に抗議する当事者の声に「またルサンチマンかw」という揶揄を返すのは差別の再生産でしかないが、だからといって「抗議の声」だけではどうにもならない。「どういうものなら実際に引き受けていけるのか」を真剣に考えていかないと。
「本当に何も見たくない」というのなら、やはり干からびて死ぬしかないと思う。(そして厄介なのは、生きることよりも「黙って死ぬ」ことの方が甘美に見えてしまうことなのだが、「常識派」の攻撃に対する反感が、結果的に僕らの生きるエネルギーになったりしないだろうか*4。)