「欠乏」と「非日常」

批評家・思想家として知られる浅田彰氏は、イラクに駐留する自衛隊について、「自分たちだけを守るために基地にひきこもりを決め込んでるんだからこれこそまさに『自衛隊』というべきか『自閉隊』というべきか」*1と語っている。「自閉*2」も「ひきこもり」も明らかに揶揄的なニュアンスで用いられているのだが、「差別語狩り」を支持していた浅田氏にしては、少々不用意な発言ではないだろうか。いや、でも「土人の国」とか言ってたしな・・・・。
というか、「自閉症」についてはともかく、「ヒキコモリ」については、確信犯的に侮蔑しよう、ということなのかもしれない*3


ちなみに『批評空間』Ⅲ-1の鼎談に、次のようなやり取りがあった*4

斎藤環 ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏がはやく来れば救われるということはありますね。
浅田彰 治療者としての斎藤さんは拙速な「兵糧攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。

まず断わっておきたいのは、僕は「ヒキコモリ」と名指される人のすべてを擁護しようとしているわけではないということ。ヒキコモリ当事者すべての弁護士になることを求められても困る。僕が支持したい当事者もいれば、そうではない当事者もいる*5
その上で言うのだが、ここで交わされているやり取りは、(もちろん前後の文脈もあるのだが)「甘やかす親がいなくなればヒキコモリは治る」という保守派の意見とほとんど区別がつかなかったりする。


斎藤氏は「父親の死」を「非日常」というのだが、死んだ直後にはそうであっても長期的には父親のいない生活は「日常」になる。僕は父が亡くなったあと必死に大学に通ったが、ひどく苦しかったし、長期的にはどうにもならなかった。
僕は阪神大震災被災時の経験から、「非日常の空間ではヒキコモリ当事者が活動的になることがある」と書いた*6が、その時の「非日常」もライフラインの復旧とともに消失するし、それよりも大事なのは、震災時に僕が元気になったのは、「欠乏」のためというよりは「他者との接続論理」が変わってしまっていたからだ。日常の生活空間では「脱社会的存在」たらざるを得なかった人間が、非日常下には異様に「社会的・活動的」になる、それは、「欠乏」ゆえではなくて、「日常の消滅」*7ゆえだと思う。(だから「欠乏」そのものが日常化してしまえば、もはや活動は生まれない。)


上のやり取りで大事なのは、むしろ斎藤氏のいう「必然的な欠乏」だと思う。単なる欠乏ではなくて、「必然的な」欠乏。「内的に納得のできる欠乏」とでもいうか。
「国が交戦状態にあるときには国内の自殺率がすごく落ちる」という話を何かで読んだが*8、「敵が明確になる」ことは、「必然的な欠乏」に気付くことと同じだろうか。――いや、しかし戦争の話を持ち出しては、上の「非日常では元気になる」と結びついて、「戦争が始まればヒキコモリは元気になる」になってしまう。
そこで、だから「自衛隊に入れろ」「戦地に送り込め」*9ではなく、「日常生活は戦場だ」という方向に話をつなげられないだろうか。それともそれは空しいレトリックでしかないだろうか。



*1:「続・憂国呆談」番外編Webスペシャ「イラク人質問題をめぐる緊急発言」

*2:文章がアップされた日付からして、石破防衛庁長官の「自閉隊」発言は知っていたはずなんですが・・・・。

*3:考えすぎ? 「ひきこもり」というのは普通に日本語の語彙だしね。

*4:共同討議「トラウマと解離」(斎藤環×中井久夫×浅田彰

*5:細かい事情説明は難しいが、とりあえずここでは「場合と状況による」とだけ答えておく。

*6:「震災 日常」で当ブログ内を検索してみてください。あと、拙著の前半でも震災時のことを記述しました。

*7:あまり報道されていないが、震災時には殺人や暴行などの犯罪も起きていたと聞く。しかしこの話題に触れるのは、もはやタブーだろうか。

*8:デュルケム『自殺論』?

*9:単純な話、「非日常」はトラウマ源でもある。震災でも戦争でも、死はつねに隣りにある。そしてトラウマ・サバイバーたちが「日常」に苦しみ「非日常」に親和的であるという事情に、僕はどうしても興味を持ってしまう。