「自分を変える」の難しさ

先日のコメント欄で、「自分を変えることと環境を変えること」が話題になりました。「環境を変えるより前に、自分を変えられないのか」というわけです。ここでは、「自分を変える」ということにまつわる問題についてあれこれ考えてみます。


実は、ひきこもりや不登校の当事者に真っ先に向けられる命令が、これだと思います。「自分を変えなさい」。そうして、当事者自身、必死で「変わろう」とする。必死に「環境に順応しよう」とする。そうして、挫折している。
僕自身、中学で自律神経失調症(一番困ったのは下痢症状)が始まったとき、本当に恐かった。「このまま社会から脱落して、ホームレスになるしかなくなるんじゃないか」。自分にホームレスとして生き抜くたくましさがあるとは思えなかったし、要するに「死ぬしかないんじゃないか」と思った。なんとか学校生活を続ける努力をしたけれども、症状は治まらず、けっきょく通えなくなった。「自分を変える」ことに失敗した。
最近では、パニックの発作に苦しんだ*1。これも、直接的な原因がわからず、「自分を変える」と言っても方法がわからない。あるいはパニックほどひどくはありませんが、僕は慢性的にいろんな意味での「知覚過敏」状態にあるので、多くの人にとってはなんてこともない状況や場面が、ひどく苦痛に感じられる(たとえば電車が苦痛であるとか)。
ですから僕の場合、「自分を変える」というのは「苦痛をともなう症状を軽減する」ということでもあるのですが、方法が分からないわけです。少なくとも持続可能な形では。


「気合いで乗り切れ」「覚悟を持って生きろ」といった精神主義的な掛け声にも一定の効果はあると思いますが、これも持続可能といえるかどうか。また、当ブログでも何度か問題にしましたが、「自分を変える」というスローガンには、「洗脳」という危険なモチーフが付きまといます。自己啓発セミナーや狂信的な宗教などは、まさに「自分を変えてくれる」わけですね。


本当に難しい。自分の中で、何に関しては「変える」必要があって、何に関してはそうではないのか。
また、「変える」ではなくて「変わる」という要因もありますよね。たとえば僕は、友人との出会いや仕事を通じてずいぶん変わったと思いますが、それはまさに「変わってしまった」と言うべきもので、一人で孤立して悩んでいても絶対に起こらなかった変化だと思います。――そう、本当はこの辺がいちばん難しいのかもしれない。人間が変化するいちばん大きな要因は「出会い」(別にロマンチックに語る気はありません)だと思うのですが、それから隔離されてしまっている人が多いわけです。すでにいろんな出会いを持った僕でさえ、行き詰まっている。



*1:さいわい、まだ大きなのは2回だけです。