「できない」のか「やらない」のか

  • 宮台真司氏のいう「脱社会的存在」がどのような射程を持つ概念かまだよく分かっていないのだが、制度に「参加できない」のか、「参加しようとしない」のか、という線引きに意味はあるんだろうか。
    • 現時点では「しようとしない」人も、出発点は「できない」からだったりする。


  • 「できない」なら保護と支援の対象だが、「できるのにやらない」なら自由意志の問題だ。
    • ホームレスというだけでは生活保護の対象にならない。身体障害を抱えていても、あるいはどんなに不況でも、≪稼働能力≫*1があると判断されれば「仕事を探してください」となる。それでも見つからなければ、「努力が足りない」とされる。( → 就労苦ホームレス訴訟、それへの憲法学者による意見書
    • 「現在、日本で要保護状態にある人の中で実際に保護を受けているのは1〜2割といわれています。」*2


  • ホームレスであってさえ生活保護を受けられないのだから、ヒキコモリ当事者としては「精神疾患」を認定してもらうしかない。つまり「自由意志であえて仕事をしない」のではなく、「できない」のだという判断を社会的に下される必要がある。
    • それはみずから禁治産( → 参照)を申し出ることだと思うのだがどうか。


  • 「どうにもならないことを何とかしようとするのは、本当に何とかしなければならないことを無視しているからだ」という言葉があった。 → 「どうにもならないこと」は何であって、「何とかしなければならないこと」は何か――そこに各人の思想の掛け金がある。
    • 「気合を入れればなんとかなる」 「資本主義ではダメだ」 「自分を変えよう」 「社会が悪い」 「甘えるな」 「現実を現実でなくそう」 「日本人なら自分を捨てろ」 云々。


  • 「できない」を「やらない」に変換するのが人類の進歩だ、と言ったら大袈裟か?
    • 原爆を「作れなかった」から「作らない」へ、フェルマーの定理を「証明できない」から「ここではしない」へ、など。あるいは、「恋人ができない」から「恋人を作らない」へ。
    • 「働けない」から、「働かない」へ。
  • 外見上同じに見えても、「無能力ゆえにその状態に留まるしかない」というのと、「選択した結果その状態に留まる」というのとはぜんぜん違う(「ひきこもれ!」という主張にはこの事情がまるで見えていない)。
    • 選択肢を増やすのが人類史だ、と言ってもいい。(ダメ?)