北田暁大氏 講演会 「アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>」 より

【僕は、ネット上の文書をじっくり読むときは、サイトから全文をコピー → 新規のTEXTメールにペースト → それをまた全文コピーしてHTMLメールに落とす → 大事なところの色を変えながら読み進む――という方法をとっています。赤線引きながら読むみたいで、イイ感じですよ。】
あまりにも基礎教養が足らなくて苦労しましたが、なんとか全文読みました。思いのほか(失礼!)クリティカルな議論があってびっくり。(以下、読みやすいように勝手に文面をいじりました*1。段落・色変え・太字などはすべて私のしわざです。)



「(言語によって)自他の信念体系を改編していく」という課題(私的領域における哲学の課題)と、「他者の悪を軽減する」という課題とは、一応別個のものです。

  • 「公的」な政治とは、これだけは許しちゃおけないという「悪」の軽減を理屈抜きに指向する言語ゲームの総体であり、
  • 「私的」な活動とは、そうした身も蓋もないリアルには還元できない信念体系の豊饒化を図る言語ゲームの実践空間です。

この、両者を混同する(文化左翼のように「哲学」が「政治」の指針を与えると考える)ことは、目前にいる他者の痛みを「意味論化」する基礎付け主義にコミットすることにつながる。
以上がローティの考えです。つまり、目の前に飢えたホームレスがいるのならば、まずはその苦しみを取り除くのが政治の課題だと。私的な領域から「ホームレスに接している私のアイデンティティとは、実は偽善なのか」云々は家でやってくれ、と。

ローティ、ええこと言うやん。
意味論化する必要があるのは、それが苦痛を取り除くときのみ、と。(ヒキコモリを「社会の症状」のように捉えて、そこから取り組み方を考える、などというのも「意味論化」の一種でしょうか。)
理論においては徹底的に考えつつも、臨床においては「過激な折衷派でありたい」と語った斎藤環さんをちょっと思い出したんですが。



これら、ローティの意見を強引にまとめると次のようなものになります。

  • 現状では色々と問題はあるけれど、とりあえずアメリカ的なリベラル・デモクラシーは、他の政治体制と比べた結果、「悪の減少」という善 good を実現してきたのは事実である(反基礎付け主義)。
  • この事実と照らし合わせるなら、なるほどアメリカ型デモクラシーに「根拠」はないが、「最善なき次善」の策とはいえるだろう(プラグマティズム)。
  • こうした感覚を持つのは、自分がアメリカという場所に生まれ育ったからかもしれないがアイロニズム)、それはそれで仕方がない。
  • 誰しも自らの位置を規定する地平の外部に出ることは出来ないのだから(エスノセントリズム)…

こうしたローティの立ち位置は、右派からは伝統批判だと非難され、左からは右翼じゃないかと疑われています。本人はどっちでもないことが自分のポジションだと強調しているんですが、ある意味典型的な<アメリカ>的スタイルですね。「基礎がない」ということを基礎にするところから議論を徹底しているからです。

ふーむ・・・・。
僕自身、どうも「自分は何をやっているのか」を(少なくとも機能的には)理解できないと何もできない、という感じがあって悩ましいのですが(だって基礎付けがなければぜんぜん動けませんから)、「(この方法に)根拠はないが、最善なき次善の策だ」っていいな。
自分のやっていることに対応するイデアなんかないんだが、でも役に立つじゃん、みたいな。
「これはなぜ役に立ったんだろう」を考えると「もっと役に立つこと」が析出できるように感じるのは、錯覚、ですかね。(でもその錯覚がなければ進歩もないような)




「ヒキコモリ」との関連で驚いたのは次の質問。

質問者3 目の前のホームレスの話で、ホームレスが飢えているのは「自己責任だという言い方が一方であると思うのですが、ローティならどう対処するのでしょう?

う、すでに理解者が居る・・・。
ホームレスだと、まだ「就労のための努力をさんざん頑張ったが、でもダメだったんだろうな」とも見えますが、ヒキコモリの場合にはそれ以上にずっと「自分自身の自由意志的選択において閉じこもってるんだ」というふうに見えないでしょうか。だとしたら、それはまさに「自己責任だ」という糾弾を受けないでしょうか。


ところで、上の質問に対する北田氏の返答は:

 私はローティでないので分かりませんが、おそらく「自己責任という曖昧な概念では議論するのは無意味だ」的なことを言うのではないでしょうか。ただ、ローティ自身は、自分の「言説の効果」について考えている人です。それがおそらく、彼がアイロニストだといわれるところだと思います。

うーん・・・・。
「自己責任という曖昧な概念で議論するのは無意味だ」という言い分が、はたして糾弾されている当事者の反論として有効かどうか。言明そのものとして(コンスタティヴには)いくら正しかろうとも、ヘタをすると(パフォーマティヴには)かえって「言い訳」みたいに見えてしまわないか、心配です。
ここでやはり、ベーシック・インカムの有効性を思い出してしまいます。あれは「成人全員に無条件に支給」なので、社会保障を得るために言説レベルで自己正当化を図る必要がまったくない。
・・・・ただ逆に言えば、「言説レベルで引きこもりを自己責任論から逃れさせる」のは、きわめて難しい課題だ、ということでしょうか。





*1:すみません>chiki さん。まずかったら言ってください。