チャット鼎談 「アメリカとネオリベラリズムを巡って」 より

うちのリンクが出会いのきっかけになったそうで、光栄です。以下、興味深かったところを。(こちらも、色変え・太字などの加工は私です)



灯 『普通だと、言説的にこの辺りでジジェクが出てきますね。イデオロギーを信じていることと、「信じているふり」をしていることの間に差異はなく、むしろ信じていないけれど信じているかのように振舞うことによって特定の社会的イデオロギーは機能し続けるし、より強固になる、というような。おそらく、ラカンの「メタレベルはない」にも通じるような気がします』



これ、素で宮台氏の「あえて」への批判になってませんか?
「メタレベルはない*1」んだから、ベタにやる形を模索するしかないと思うんですが。



chiki 『$◇aを続けることによって、死んだ父=Aのスラッシュに惹かれ続ける。そこには既にメタレベルはないのだけれども、Aに行きたがるa(フェティッシュ残っている(残余)、ということでしょうか?』



三島由紀夫氏があれほど鮮烈な印象を呼んで「日本」「天皇」を際立たせてしまったこと。
宮台氏にとっての天皇
そしてもう一つ気にになるのが、ジジェクが来日した折に『批評空間』で行なった討議において、日本の象徴天皇制を(ヘーゲルの国家論を参照しつつ)容認していたことです。象徴界にあいた穴(現実界)に、まったく無根拠で形式的な「我欲す」の一撃を与えること。「絶対精神を目指す」道程から、「絶対精神はあり得ない」への反転(Aバレ)。――あの時、ジジェクの立論に夢中になりながら、最後まで苦しんだ論点でした。(こんなところで再会することになるとは・・・)



リリカ 『ちゃんと説明できませんが、やっぱり、日本人とアメリカ人の、アイロニーニヒリズムのあり方はかなり違っているように思えます』
chiki 『北田先生も、今、日本のアイロニーに関して分析中だと思います。宮台さんのことだけでなく、2ちゃんねる論がその序論のようなものになるのかもしれません。ところで、日本の場合、コジェーヴが「日本的スノビズム」と呼んだものがありますが、それが日本的アイロニー(或いは日本的シニシズム)にどうつながっていくのかって気になりますよね。』

なるほど。
ずいぶん前に、アメリカ人は、無を恐がる(なぜならそれは≪死≫だから)。しかし、日本人はやすやすとその無を楽しむことができる」とどこかで読んで、妙に印象的だった記憶があります。アメリカ文化(あるいは日本のテレビ文化)を覆う「空白・無音への恐怖」とか。(いや、それはちがう話か)
スノビズムは、アイロニーシニシズムなしに≪永遠の空虚≫を生き抜く作法だ」、なんて言ったらアホですか。(オタクとスノビズムは違うもの?とまた初級者のしつもん。たぶん、「物」と「形式」の関係がもんだいだと思うのですが・・・)


ちなみに、社会から脱落してしまっている人間は、スノビズムアイロニーシニシズム、そのどれをも生きられなくなっていて、だから黙っていたら死ぬしかない。「信じているように振る舞う」ことさえできない人間*2は、あくせくと別の選択肢を探さざるを(創らざるを)えない・・・・。



灯 『セーフティーネットも無しで「自己責任」もないでしょう。権限もなしで…』
chiki 『そこがリバタニアンの欺瞞ですね』
リリカ 『「自己責任」と言っている人は、実際何の責任を取れと考えているのかよくわからないです』
chiki 『選択の結果、という因果性のことなんでしょう。「あなたには選択肢があった。でもこれを選んだ。ゆえに自己責任である」と。でも、この場合の選択肢ってちっとも平等ではないですから』



これは僕も先日触れた「教育機会の階級差」みたいな話なんですが、そのまま「ヒキコモリ」を考える参考になると思います。
リバタリアニズムの発想から言えば、引きこもりは「自由な選択の結果」ということになるのだと思います。 → でも実情は違う。本質は「インポテンツ」(無能力)の問題です。 → その無能力の内実(個人と社会の絡み合い)をつまびらかにするところから、有効な具体案を生み出したいのですが。


生活の無能力に対するセーフティ・ネットとしてのベーシック・インカムなわけですが、僕としてはこれに平行し、「別のセーフティ・ネット」としての「地域通貨」にも、注目していきたいと思っています。





*1:正確には「メタ言語はない」(Il n'y a pas de métalangage.)ですね。

*2:なぜできないのか、は一考の価値があるかも。