「負けてもいい」?

昨日、「『たたかう』というコミットを欲望できるか?」と書いたんだけど、これは要するに「負けたくない、と思えるか?」ということですね。
「負けてもいい、消えてもいい、何もなかったことにしたい」というのは、これはこれで強烈な願望だと思う。
でも、はたして自分が本当にそう思っているか。


「振られてもいいや」と思うと楽になる。 「振られたくない」と思うとつらくなる。
「死んでもいいや」と思うとどうでもいい。 「生きなくちゃ」と思うと恐くなる。
「自分のせいで親に迷惑が・・・・」を、気にするのかしないのか。
「この人を守りたい」と思えるか。そういう人がいるか。


もちろん、出世・収入・結婚などの「フツーの価値観」で勝ち負けを競うのはつまらないし、そんなものの呪縛からは早々に逃げ出した方がいい。でも、「生きていくことさえできない」とか「自分の大好きな人が苦しむ」という状況を目の前にして、「どっちでもいい」とは、・・・・・・言えるか?


あまりにも圧倒的な無力感に打ちひしがれたときには、消えるしかなくなるのかもしれない。


自分のたいせつな怒りや愛情の感覚に対して、「まだできることがあるかもしれない」と思えるときにのみ、「負けたくない、やれることをやりたい」と思うのか。


これは、「ヒキコモリ当事者」――ヘタレの中のヘタレ――である僕が、どうしてこの「ヒキコモリ」というテーマについてのみは長続きしているか、とも関係する。
このテーマが僕を殺しかねない*1ということにも気付いている。でも、ひょっとしたら僕は、一生このテーマから逃げられないのではないか。それは「意志の強さ」ではなく、何か別の要因ではないか。
そう考えて少々ゾッとしている。


自分自身の中の何かが、「許さない」と言っている。でも何をどう許さないのか。




今日の話、まだまだ続きます。





*1:文字通りの意味で