マイノリティの中のマイノリティ?

旅行から帰宅して、あたらしく面白いダイアリーを発見 → 『成城トランスカレッジ!!―戯言@はてな―』 by chiki さん(id:seijotcp)。初日から今日の分まで目を通してしまった。文学研究から社会学に進路変更されるそうで、東浩紀さんじゃないですが「やはり社会学なのか」と。ヒキコモリもマイノリティーだしな・・・。
で、今日はその2004年4月20日から。

 『特筆すべきは、今回の「事件」*1にネットが大きな役割を担っていたこと。chikiはweb上で、この手の事件についてのまともな議論が行われる場所が多分あまりないだろうと思って色んなサイト、多くの方々に声をかけさせていただいたのです。ところがあちこちのblogで言及されていて、皆意外と関心が高いんだと驚いた。はてなだけで毎日1000近い言及があるんだもの』(chiki)
 『ところが、そのほとんどは単なる「日記」、しかも自分の自意識をぶつけてるだけじゃない? 「議論」でもなんでもないし、「意見」でもなんでもない。そういうところ、日本の公共意識って未だに「ひきこもり」みたいだよね』(tiki

パペットマペットみたいな一人対話なんですが、僕はもちろん「ひきこもり」という言葉に反応したわけです。(以下、id:seijotcp さんを批判したいのではなくて、「この発言に刺激をいただいて考えてみた」というだけなので念のため。)


厚生労働省などによるヒキコモリ定義*2からすれば、僕は「現役当事者」ではなくて「経験者」ということになる*3。でも、それは「かつては閉鎖的なメンタリティだったが今は違う」ということではない。むしろ、閉鎖的に振る舞うのがヘタだから閉じこもるしかなくなってしまったという面がある*4
ヒキコモリ当事者としては、ムラ的(あるいは自意識的)に閉じこもりたい人のほうが多数派だろうか。「自分の帰属によってではなく、オープンなプロジェクトへの企投において自分を支えたい」という僕の姿勢は、やはり少数派、というよりほとんど孤立したものだろうか。
ついでに言えば、ヒキコモリと言えば「ルサンチマン」が常に問題になるのだが、僕自身はそのようなフテ腐れた状態に甘んじるのが本当に嫌いだ。「何ができるか」を常に考えたい。「俺たちダメだよね」で自虐的に安住するのはどうしても耐えられない。*5


うーん・・・・。 これ、ちょっとこれからも考えます。



*1:引用者注:イラクでの邦人人質事件)

*2:「家族以外との人間関係がない」など

*3:苦しみは続いているけど。

*4:上のほうで書いた「正義感ゆえに仕事ができなくなる」と似ている。「正義感を持てば持つほど仕事が遂行不可能になる」、「オープン性を保とうとすればするほど(傷ついて)閉じこもらざるを得なくなる」という皮肉。 ← 繰り返すけど、この辺のバランス感覚(というかフットワーク)が今の課題。

*5:これは僕がある程度「希望」を語れるようになったから言えることで、本当に絶望していたら語る気にもなれない。(「死は死であることをやめない」という意味において、僕はたしかに絶望している。でも、それは必要な絶望なんだと思う。 → 「去勢」ということか?)