「泣いてみますた」?

波状言論』の北田鼎談で、「動員メディアとしてのFLASHムービー」という話題があってとても興味深く*1、あらためて実例と元スレを見てみた。

「1=毒」という人の書き込みやそれをめぐる周囲の反応には、「ひきこもり」というテーマ周辺の事情に通じるところがある。追い詰められた本人、愛情をもって見守るが何もできない親、その親への罪悪感(申し訳なさ)、似た境遇にある共感者、「悲劇のヒーロー(ヒロイン)ぶるな」「甘えるな」という罵声、「世界にはもっと苦しんでいる人がいる」――云々。
「ヒキコモリ」についてどう考えるか、というのが思想の試金石の1つになり得ると思うのだが*2、このスレッドについてどう考えるか、ということでもいろいろ検証できるかも。
google:泣ける2ちゃんねる などを見ても、「泣ける」ことにはかなり需要があるみたい。詳しく見てないけど、「親が死ぬ」話が多いのかな。


僕自身は、いったんひとまず「感動」してみて、その感動してしまった地点から自分を検証してみる、という作業が生産的なように思うのだがどうでしょう。何かの作品や事件にショックを受け、雑念がなくなり、自分にとって本当に大事な問題が見えてくる、というのは大事な経験だと思うのですが。


作為性が見えるとシラケる。陳腐でも「素」だと感動する。――僕らは「素」になれないから苦しんでいる面がないか。何をやっても作為性の牢獄の中にしかいない、だからシラケて溜息をついていないか? 「自然に振る舞う」というのは、こんなにいかがわしいことはないわけで・・・・*3
目の前にある素朴な感動モノに肩をすくめることはできる。でも僕らはたぶん、どんなに「作為的」に振る舞っても、「素」の部分を残してしまうと思う*4宮台真司氏の言う「あえて」の戦略は、「ニヤリ」を共有するようでいて、実はスキャンダラスな素の心情を共有するだけではないか?
自分の素の部分に素で向き合う逃げのきかなさ*5の方によっぽど共感するし、「アイロニカルにやる」という姿勢自体が最終的にはベタでしかないと思う。2ちゃんねるにも言えることだけど、アイロニカルな姿勢に潜んでいる素朴な態度のほうがよっぽど硬直している。


「素朴にやるのはカッコ悪いからアイロニカルにやる」ではなくて、「素朴であることそのものを洗練する」必要がないか。
「すぐに泣いてしまう」というのは、素朴であることへの免疫がない状態ではないか。
動員スキームとしてはアイロニーの方がいいということなんでしょうか。でもアイロニーが強まれば強まるほど、「素」であることへの免疫力は落ちませんか?



*1:僕も以前気付かないまま引用していた

*2:というようなことを斎藤環さんも言ってましたっけ。

*3:「笑わせる才能」と「感動させる才能」の近しさを思い出す。どちらも、才能のない人がやると作為的な感じしかしない。・・・・とか言ってて、案外すぐに笑ったり感動したりしているし、好きな友人との関係においてはとりわけそうだ。何なんだろう。

*4:この点、僕はラカンの言う「発話内容の主体」と「発話行為の主体」の区別を思い出したのですが、間違ってますか?

*5:東浩紀さんの言う「あえてベタにやる」