仕事

学問(事業)に恋をする(その学問や事業に恋をしたこと自体が才能の一端ではある) → 才能がないのを悟る(学問や事業そのものに振られる) → 思慕し努力しても結果を出せないと思い、撤退する → その事業(学問)で「うまくやっている人」は常に気になる → 当該の学問や事業そのものへの興味を失う(恋の終わり?)。


自分の側の小さな選択と努力が、仕事への大きな“出会い”を生むことがある。 「まさかこんな仕事を自分がすることになるとは」。 意外性と汲み尽せなさ。 出会いそのものに(遡及的にのみ気付かれ得る)必然性があったか?
せっかく出会えた「最高に情熱をもてる事業」が、同時に「自分を最悪に傷つける事業」なら、どうすればいいのか。 「仕事上の課題」と、「自分を大事にする課題」とが両立しない。 → 「自分を痛めつけてまでする仕事なのか?」。 成果のなさ、「楽しむ」要因のなさから、職業上の能動的要因が消えてゆく。


自分が恋い焦がれることのできる事業はこの世にない、と思うようになる。 そもそも自分には、「何かに没頭する才能」が欠けているのではないか?(対象はつまらなく、自分もつまらない、という感覚)。 → 生きるために必要な勉強や労働のすべては、「受動的苦役」でしかあり得ず、残された時間のすべては、能動的になれない「隷従的消化」なのでは? 打ち込めるものを持てない時間が苦しくてならない。
残された「生きている時間」そのものに恋をできない(幻滅と恐怖しかない)。 ところが生きている限り、労働の必要は生じる(金を稼がねばならない)。 金銭の必要から解放されるには、死ぬしかない。