「仕事をしたことになる」というアリバイが優先される

いくらたくさん予算を組んでも、
現場の人は現場のピュアさを追求するだろうし、学者は学者としてのピュアさを追求して、
その「ピュアさ」だと思い込んでいるフレーム自体がもたらす苦痛に気付かない。
人材レベルで現場と学者をシャッフルしても、それぞれが「自分の純粋さ」を追求しようとするだけで、ありていに言えば自分たちの仕事のプライドを押しつけあって終わる。

  • 現場は、どんなに無思想にやっていても、すでに思想を生きている。 「哲学者や理論を知っている」というのではなくて、時代の制約を受けた思想的枠組みを生きてしまっている。 「難しい話は分からない」という人は、自分の思い込みの枠組みに気づかない。
  • 学者は、ひたすら「学説の内容」そのものに心を砕くが、学者同士の人間関係のどうしようもなさがあるし、学問という営みそのものが置かれる苦境がある。 つまり、学者じたいの現場性がある(のに、気付いていない、あるいは触りたがらない)。 学者の実態へのフィールドワークが必要。
    • ――それぞれのジャンルが自分の足元を分析したうえで人材シャッフルが起きないと、「ふれあい」を持ったところでどうしようもない*1



そういう「足元の分析」に制度的保障がなければ、チャレンジした個人の玉砕的決意に頼るしかない。これでは根付かない。
硬直した制度的枠組みは、業績や雇用を守る枠組みでもあるので、その枠組みをぐらつかせると、名誉だけでなく生活まで危うくなる。するとみんな、神経症的に参ってでも、生活を守るほうを選ぶ。


考えなければいけない問題の実態よりも、(1)関係者のプライド と、(2)生活の都合 が優先される。 だとすると、プライドと生活の都合を調達するシステムそのものを書き換えなければ、実態は変わっていかない


私たちは、与えられた制度的枠組みでしか「仕事のスタイル」を作ることができない。そのレベルに働きかけることは、最初は「仕事」とみなされない。しかしそこで仕事をすることが、必要な仕事であり得る。
保守的な個々の成果は、それぞれのフィールド作法で褒められたりけなされたりしても、反復される個々のプロセスや、「関係性のあり方」を変えない。つまり、《社会性のあり方》を問い直さない。


大文字の政治イデオロギーの前に、身近な関係性がどういう体質かを分析しないと、あなたはまじめに考え始めた瞬間に排除される。



*1:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』は、野心としてはそういう主張の本だ。 ▼「現場のことを知っている学者」も、「理論を知っている現場人」も、それ自体ではあんまり意味がない。なぜなら、自分のディシプリンをそのままにして、お互いに相手の領域をアリバイにしているだけだからだ。