解説者の体現する《制度》

ウリの文章に、触れてみてほしい。
論じることが、臨床の時間と離れていない。この文章そのものに、「世界との新たな関係の孵化ふかをうながす」(p.218)ところがある。 時計の時間に支配されて固まった時間を、ときほぐすようなこと。


今回のエントリでは、どうしても気になったところを一点だけ。【→※後日の追記的エントリ:「紛争を書き換えることはできるか」】


このウリの論考には、訳者である山森裕毅氏と三脇康生氏による「解題」がついているのだが、――この解題には、ラボルド病院の文脈にある《制度》概念の、キモとも言えるモチーフが感じられない。それどころか、意図的にそのモチーフを排除したような解説になっている。


読者としての私は、10年あまり前に三脇康生氏の仕事に触れたことが、《ラボルドの制度概念》への入り口になった*1。ところがこの連名解題では、三脇氏の論考にくり返し現れる核心的モチーフが、ごっそりなくなっている。「今回は論じない」とか、「あえて批判的に考えてみる」ということですらなくて、この解題は、たんに三脇氏の仕事を知らない人の文章になっている。


具体的に引用してみよう。
上掲『現代思想』pp.226-227 より(強調やリンクは引用者)。

 事の発端は、翻訳者の一人である山森が「臨床実践の現象学研究会」に参加して、精神科デイケアで働く看護師と知り合ったことにある。その方は制度精神療法に関心があるということだったが、おおよそ次のような不満を持っていた。

    • 制度精神療法に関心があって、自分たちの施設で利用可能かどうか勉強している。しかし、日本語で読めるものにはウリやフェリックス・ガタリの思想を中心にしたものばかりで、制度精神療法そのものについて書かれたものは少ない。かといって原典を読むのも難しい。また、制度精神療法のなかで看護師が重要な位置づけを持つとされているが、その理由に関しては明確ではない。どう考えればいいのか…。

 しかしあの看護師はこれでは納得しなかった。なぜだろうか。この疑問点を持って『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』を読み返すならば次の点を指摘できるだろう。この本は制度精神療法の「制度」の考察に重点を置き過ぎ、「精神療法」の側面には深く踏み込んでいない。つまり看護肺が「療法に参加する」ことの必然性と、参加することの治療に対する関連性が、理論的にも実践的にも示しきれていないのである。



私もこの『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』に参加させていただいた一人だが、この本が作られる過程で、くり返し確認されたモチーフが、

    • 制度を論じることと、臨床実務は、分離できない
    • 制度を論じることは、それ自体がすでに、臨床実務である

ということだった。
おそらく今回の解題は、山森裕毅氏が執筆し、それに三脇康生氏が名前を提供したのだろうが、――この連名の内実を聞き取ることが、日本の言説状況をめぐる、《制度》の分析になるかもしれない。



この連名解題には、次のような前提がある。

 理論を考えるのは大学(≒学者)
 現場は病院(≒看護師)

この前提では、

    • 学者は、「病院の制度」を分析することはあっても、自分の大学を分析することはない。アカデミック・サークルの順応者が、雲の上から裁定を下す。
    • 難解な理論を生きる学者はメタであり、病院の制度を対象化する――ここでは、大学人の意識そのものが制度であり、私たちの生活環境に大きく影響する環境要因であるという理解が、まったくない。
    • 理論家は、自分の言説がどういう生態系を前提にしているか、その理論言語が、臨床の時間の流れにどう影響してしまっているかを、考えない(参照)。



ここには、私が興味を寄せてきた形での制度論がない。


引用された看護師のかたの不満は、こうした(制度論のない)言説環境においてこそ、多くの方に共有される。つまり今回の解題は、ラボルド的な制度概念の理解には失敗しているが、《読者の多くが困惑しているポイント》を、(パフォーマティブにも)指摘できている。


この連名解題は、単に答え合わせのように否定すれば良いのではなくて、
まさにこの解題に現れている制度をこそ、分析すべきなのだ。*2



大事なポイントも触れられている。

 つまり看護師の問いは、精神科の看護という制度がいかにして患者の治療に関わるのか、というものである。この問いは、看護師たちが目分たちの振る舞い次第で、ケアがキュア(治療)にもなるという立場を受け止めるかどうかの境界線上にある検証されるべき問いだといえる。 (上掲『現代思想』p.227)



「制度を論じることは、すでに臨床実務である」と言っても、
たしかにその内実は伝わっておらず、また、
研究し尽くされてもいない。


また、論じる努力が、臨床や生活の時間と、いつの間にか乖離してしまう*3――この言説環境での振舞いかたは、あらためて研究されるべきだろう。理論言語を含むプレゼンテーションは、制度論的にメタな世界にいるのではないのだから、振舞い方そのものが、実務上の課題だ。「制度論ができていない」と指摘するだけでは、その指摘そのものが、またメタに鎮座してしまう。*4


ジャン・ウリの半世紀前の文章に取り組んだこの連名解題には、
現在の私たちの抱える問題こそが、体現されている。



【翌日の追記】

ラボルドの臨床を扱ったもう一冊の邦語文献である『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』には、ジャン・ウリのほか、フェリックス・グァタリ、フランソワ・トスケイエスのインタビューも掲載されているが、《ラボルド的な制度概念》の理解が進むまでは、彼らが何を論じているのか、ほとんどまったく理解できない。

つまり、「精神分析や西洋哲学史の知識があれば、大体どのあたりの話をしているかは分かる」といった議論には、なっていない。問われているのは、むしろ頭でっかちの(あるいは単に理念的な)努力の方向性だ。

専門用語の難解さではなく、意識のスタイルそのものを問い直す難しさなので、いちど「何の話をしているか」が分かると、とても日常的な話だと分かる。


つづき:【硬直した「当事者尊重」は、理論による疎外の強化にすぎない


*1:その後の私じしんの疑念については、共著刊行時のエントリほかに記した(参照)。

*2:解題は、単にメタにあるのではない。解題そのものが、分析されるべき(制度論的な)素材だ。

*3:結果として、その都度その場での、リアルタイムの制度論的な分析は、禁止されてしまう。――この問題は、山森裕毅氏のドゥルーズ論にそのまま出ているように思われた(参照)。 同じ問題は、私が発足時に参加した「Institution 研究会」(今回の連名解題末尾に謝辞がある)にも、感じていた。

*4:学術的な論文を書こうとすると、「大学的なディスクール」で書かざるを得ない。それはいつの間にか、優等生的な語りに毒されてしまう――このディスクールそのものが生じさせている問題に取り組むには、どうすればよいだろう。どう振舞うことが、制度を話題にできる環境づくりに繋がるだろう。――プレゼンテーションは、それ自体が、制度論的な研究課題だ。