「解決」ではなく

 他にもネット中毒の問題など、いくつかの話題が出たが、会議全体を覆う「治療対象としてのヒキコモリ」という雰囲気がとてもつらくて、実はそれ以上はあまり覚えていない。


 発言者席に座っている当事者は僕だけだったが、会場には他にも日本人当事者がいて、短い発言を求められていた。一人はたしか18歳の男性で(これから大学を目指すという)、韓国側の精神科医から質問も出ていた(内容は失念)。




 会議の最後、司会者の方が締めとして、「・・・ヒキコモリの solution を・・・・」という言葉を口にされたので、「ちょっといいですか」と手を挙げて、発言を許可してもらった。

 いま、「solution(解決)」という言葉を使われました。先ほどからも「臨床」ということが言われているわけですが、ヒキコモリを「治さなければならない」とだけ考えてしまうと、その「治療」というテーマ設定がほかの議論すべてを排除してしまって、議論そのものがものすごく貧しくなるんですね。で、その議論の貧しさが、ものすごいストレスを生むんです。
 ひきこもりというのは、本人自身にとっても「なぜこんなことになってしまうか」が分からない、あるいは親や精神科医、支援者など、関係者のすべてにとってもその理由がわからない――ということは、どうすればいいのか誰にもわからない――状態で、その意味で、誰にとっても≪問い≫だと思うんですね。
 韓国側の皆さんにぜひお願いしたいんですが、どうかその「ひきこもりは問いである」という認識を、共有してもらえないでしょうか。

 だいたいこんな話だったと思う。翻訳されたら、何人かの方がメモを取っていた。どうか伝わっていますように。(この最後の発言は『中央公論』記事では全面カット)




 司会者が会議を締めくくった。


 いやあ、疲れたずら。マジで。