「ヒキコモリ」の問題は、それがひどい苦痛を伴うという意味においては「医療」の問題だし、日本においては文脈上まずは精神科医が啓蒙のイニシアチヴを取る意味があったと思う(「犯罪者予備軍」「甘えている」という偏見に対抗するには、いったん医師が「医療」の問題として取り上げ、しかもその当の精神科医自身が「ヒキコモリ」を肯定する、というアクロバティックな身振りが必要だったのではないか)。
だから文脈上・戦略上の意義は無視できないし、それだけでなく内実としても精神科医の方々に果たしていただきたい役割は重大だと思うのだが(僭越な言い方でスミマセン)、「ヒキコモリ」という大きなテーマ設定を俯瞰的に考えてみれば、「医師」に担える役割というのはあくまで部分的なものであることに気付く。
しつこいようだが、医師の役割を軽視したいのではない。「医師」という肩書きがなければできない手続きや対応があるのだし(行政との関係、クスリの処方、他疾患の可能性の診断など)、相談窓口としてはどうしても必要な存在だ。
だが、会議録でも少し触れたように、ヒキコモリというテーマには様々な要因が絡んでおり、中でも本質的なのは社会的・人文的要因*1、そして「職業生活」だと思う。
社会的・人文的要因ゆえの苦痛、そして「働けない」がゆえの苦痛――そうした事情において、「精神科医」が果たし得る役割はおのずと限られてくるはずだ。【付記:斎藤氏はこの僕の指摘をレポートで取り上げてくださっている。こうした点も、僕が彼を信頼できる理由だ。】
斎藤環氏は「精神科医」という立場に立ちつつ、精一杯「倫理的」に振る舞おうとしているのだと思う。そしてヒキコモリが「医療」という枠内では扱いきれないテーマであるとしたら、彼(精神科医)が為しえない仕事は、他のポジションにいる人間が担わなければならない。
僕自身は、自分の最大テーマは「苦痛除去」だと思っている。だからその意味で僕の発想は医師的だとも言えるのだが、人間の苦痛を除去するには、体のことだけを考えていればいいわけではないし、そもそも「医療的」に振る舞えば振る舞うほど、苦痛をいや増してしまう、という皮肉な事情がある(「臨床的」であろうとすればするほど「臨床的」でなくなる、というような)。
僕自身は社会的には医師というポジションにはないわけだから、人文や経済を含んだ、もう少し領域横断的な発想をするべきなんだろう。
ところで斎藤さんは『ひきこもり文化論』(ISBN:4314009543)という人文的な本を書かれている。その書評でも書いたが、既存のヒキコモリ論に欠けていて自分が必要だと思う論点については、各人が自分の力で提出し奮闘するしかないのだろう。ないものねだりではなく、自分が実際にやってみせて魅惑すること!(ああ、またれいの論点だ!)
というわけで、おしまいおしまい・・・・。
ご清聴ありがとうございました。
(幕)
P.S. 3月27日、大阪で、関西の民間支援団体や行政相談窓口の「合同説明会」*2があり(画期的なガイドマップも配布されました*3)、その前座のシンポジウムで、永冨奈津恵さんとパネラーをしてきました。やっぱりいろいろ考えたので、またレポートしまーす。約束を破るかもしれない前提でお待ちくださーい。
【注】