《当事者》――「社会」「身体」「受動的内面」

《当事者性》として切り分けられる属性には、膨大な数がある。政治や司法における「紛争当事者」には様々あるし、「不登校」「ひきこもり」「犯罪被害」「女性」「在日」「高齢者」「同性愛」「摂食障害」「被差別部落」「ホームレス」「障害者」「フリーター」「HIV」「癌」・・・・挙げていけばきりがない。
伝統的には、病気や障害など「身体」に関わる当事者性と、貧困や差別など「社会」に関わる当事者性があったと思うが、最近出てきているのは、不登校摂食障害など、「受動的で不可抗力の内面事情」に関する当事者性*1ではないだろうか。
私は、みずからが「不登校・ひきこもり」の経験者であることから、「《当事者》同士でジャンル横断的に何かできるのではないか」という積極的な動機を維持しているのだが、最近経験した個人的論争(というかすれ違い)を通じて、受動的な内面事情を本質的構成要素とするジャンル当事者と、そうではないジャンル当事者とでは、抱える問題意識や取り組むべき問題構制がまったく違っているのではないか、と感じるようになった*2。 ▼ジャンルの違う当事者間において、重複する課題はもちろんあるし、協力関係の模索はつねに続けたいが、やはりお互いの文脈やディテールの違いについては、じゅうぶん慎重になるべきではないか。
私はこれまで、「“当事者”にはたくさんある」とのみ考えていたのだが、協力関係を模索する実際上の懸念から、以上のようなことを考えたのだが・・・。▼さらに細かく言えば、「不可抗力の内面事情」を核心とするジャンル当事者同士においても、「その事情を改善したいのか」「そうではないのか」「改善したいと思うのは自分の事情なのか社会の事情なのか」といったあたりで、さらに細かい相違があるはず。 このあたり、本当に慎重に行きたい・・・。



*1:それはまず最初は、「説教」の対象となる。 その後「治療」の是非が、最も激烈な論争モチーフとなる。

*2:同様の齟齬は、「身体」と「社会」の当事者相互間にもあるのではないか。 そういう事情は、歴史的に議論されてきたのだろうか。