玄田有史氏:「「いいかげん」であることの大切さを科学的に証明する」

「ちゃんといいかげんに生きよう」というメッセージは、それ自体を「いいかげん」に取ることは禁じている。 そもそも、メッセージを真面目に受け取りすぎる主体事情への「最初の一撃」が目指されている。 「順応しようとすればするほどできなくなる」という、逆説的な強迫観念事情への臨床的配慮。 「ニートはだらしない」という世間的先入観へのひねり。 ▼家族から見れば、ひきこもりも無業も「いいかげん」に見えており、これがトラブルの原因となっている。 「いいかげんに」の指針は《結果》において実を示すしかないが、それよりも最初から、ドライな《交渉関係》を概念枠として提示し、「交渉・契約関係に成功したなら、あとは気を抜いていいじゃないか」としたほうが良くないか。 ▼玄田氏のメッセージは、本物の「いいかげん」による困った事態については検討できなくなる。 本物の「いいかげんさ」においては、いい加減であることは自覚的検討対象にならないが、ここでは「いいかげんであること」が、「心ではなく魂」において、ナルシスティックな確認儀式の一環となる。 「いいかげんであること」が肯定的に語り得るための評価基準を、主観的な自己満足以外のロジックで提出できるか。

 「いいかげん」であることの大切さを科学的に証明することが、私の重要な研究テーマになっている。

これは、経済学の問題なんだろうか、それとも人文的な問題だろうか。
「厳密であること」は、それ自体が労働疎外の一環だろうか。 むしろ、説得的に厳密であれることのほうに私は自由を感じるが・・・。 ▼「説得的に厳密である」ことのために、「いいかげんであることの科学」が必要だ、ということだろうか。