「意味のない体験の当事者」

「エリート」に関し、私は昨日次のように書いた。

「エリートであること」が悪い意味で問題になる局面があるとすれば、「それゆえに有効な課題を析出できない」ケースのみ。

これには重要な補足が要る。


「当事者としての内面事情を言語化する」という事業では、やはり体験に応じた仕事しかできない*1
積極的な生活体験に関する、取り返しのつかない長期脱落(一方的に自己滅却的な意識状態のキツさ)*2、事実上回復不可能の絶望――こうしたことがどのような内面事情を当人に与えるか、・・・・・経験のない人に想像できるとは思いにくいし*3、逆に言えば、「理解された」として、だからどうだというのか。 仮にかつては深刻な状態を経験していようとも、生活体験のなかで新しいチャンスに恵まれてゆけば、かつての限界的な精神状態を(いい意味で)忘れてゆく。
「脱落による傷」は――いやどんな傷であれ――、それ自体としては、何の意味も持たない。 誰の役にも立たない、単にないほうがよかった、本当に何の意味もない。 「そんな傷より、働いて生きていく傷の方がはるかに深い」 「恋愛なんてしないほうが楽だよ」――お互いに共感できない傷の中で、「ひきこもり」の生んだ傷の政治力は、小さい。 もっと言えば、本当の脱落者はすでにこの世にいない。
あれほど苦しかったのに、「意味がない」。 いや「意味がない」どころか、健康に社会生活や性愛生活を送った連中のほうが人間として優れた成長を遂げている、そのこと自体が許せない。とつぶやくこと自体に意味がない。 その「意味がない」が耐えられず、今も時間が耐えられず、「この世にいたくない」と思う。 使い道のない理不尽な傷は居残っても化膿して、そのまま悲惨にひからびてゆく。 残された時間には、もう楽しみはない。 → 本当にそう言いきれないところで、生き延びているはず。


当事者経由の内面仕事と、そうではない内面仕事に、ちがいはあるだろうか。
当事者を楽にするために、「当事者学」は必要なのか。
それだけが剔抉できるニーズなんてあるのか。



*1:もちろん、例外的な人物の出現を私は常に待っている。こうした能力はひょっとすると、小説家的な想像力の問題なのだろうか。よくわからない。

*2:このあたりは、どう説明してもし足りない感じが残る

*3:「理解されない」という事情は、あらゆるつらい体験について言い得ると思う。 「ひきこもり当事者」同士についてさえ。