「治療」?

 会議では、これまでに参加してきた日本のヒキコモリ関連のイベントでは絶対になかったような途轍もないつらさを味わい続けた。これはなんだろうと思ったら、どうやら韓国側の参加者を支配している「ヒキコモリは治療せねば」という雰囲気のせいらしい。彼ら精神科医にとって、「ヒキコモリ」(“隠遁型ひとりぼっち”)というのは飽くまで病的な、「治療せねばならない」対象であって、ひきこもるという行動が自己防衛などの重要な意味をも持ち得る、少なくとも閉じこもること自体が悪いわけではない、といった視点がないようなのだ。道徳的葛藤の余地すらなく、ただひたすら「治療」という大テーゼがある。
 (これは書いていいかどうかわからないが、斎藤環さんもその点を気にして、休憩時間には僕を気遣ってくださった。)




 逆に言えば、ここ数年間に斎藤環さん*1が日本でしてきた啓蒙活動がいかに重要だったか、あるいは僕がいかにその恩恵に浴して活動してきたか、ということだ。あらためて痛感した。


 2000年前後に連続して起こった「ヒキコモリによる犯罪」によって、ヒキコモリは「犯罪者予備軍」として人口に膾炙した。それ以後も「ヒキコモリは甘えだ」*2云々と主に保守的な人々による非難が続いたが、斎藤氏は徹底してヒキコモリ擁護にまわり、TVなどでの発言を続けた。現在では、NHKのサポートキャンペーンをはじめとして、「ヒキコモリ当事者は苦しんでいる」がマスコミ報道の前提となっている*3。「社会問題に精神科医の発言が求められる」という状況を意識的・戦略的に逆手にとって、意図的に権威として振る舞ったわけだ(個人的には、これ以上はないくらいに気さくでフレンドリーな知人なのだが)。


 実は「ヒキコモリ擁護」というのは左翼陣営の人たちもしていて(「資本主義の犠牲者だ」など)、だから斎藤さんだけの功績ではないのだが、イデオロギー的な主張にはない細やかなディテールを持ったヒキコモリ論をしているという意味においては、斎藤氏の功績は大きい*4。最近では安易な斎藤批判で何かを言ったつもりになる人が多いが、やはり戦略的には斎藤氏を擁護しておくべき場面が多い。(難しいのは、ひきこもりが「医療」という枠組みだけでは扱えないテーマだということだ。これについては後述。)



*1:日本の「ひきこもり」の文脈においては、朝日新聞記者の塩倉裕さんを忘れることはできないのだが(塩倉さんの新聞連載は斎藤さんの本より前だ)、日本の文脈では「精神科医」たる斎藤環氏が権威に据えられることになり、マスコミのコメント依頼は斎藤氏に集中した。「精神科医」にすべてを頼ろうとすることへの疑問も含め、そういう文脈上のいきさつは踏まえておくべきだと思う。

*2:私見では、ヒキコモリは「甘え」の問題ではなく「絶望」の問題だ。

*3:NHKの番組にありがちな「ボクたちのことをわかって欲しい」みたいな取り上げ方に問題がないとは思わないが(個人的には激しく苦手)、非難の論調よりはマシというか。その辺の戦略は難しいです、ハイ・・・・。

*4:一般向けのレポートとしては、斎藤氏のものより塩倉裕氏のものが読まれたのではないかと思うのだがどうだろう。僕は「当事者」という立場であり、身近でお付き合いがあるのも当事者やご家族ばかりなので、一般の読者にとっての事情がどうであるのか、よくわからない。