「餓死」というテーマ設定

 ・・・・そう、そういう戦略的な意味合いにおいて、僕は韓国で失敗したかもしれないんだ。
 僕は会議前には、「今回の会議では、何か発展的な論点を示せないか」と息巻いていて、それを集約した話題が「餓死」というものだった。


 当事者も親も若い間は、ヒキコモリは「親が面倒を見るべきか否か」という価値観的な論点で話がすむが、両者ともに高齢化し、親に扶養能力がなくなると、ヒキコモリは価値観の問題ではなく「生きるか死ぬか」という問題になる。端的な話、お金がなくなるのだ。もちろん親も間もなく死ぬ。そのとき、どうするか。働きに出て、稼ぎを作れるか。それとも、閉じこもるしかできなくて餓死するか。


 ちなみに「餓死」という死に方は、きわめて「ひきこもり的」だ。飛び降りや首吊りは、「扉を開けて死の世界に出てゆく」というイメージがあるが、餓死には、「ひきこもったままなし崩しに死んでゆく」というイメージがある。


 「働くぐらいなら死んだ方がマシ」という、子供っぽくはあるがきわめて実感のこもった当事者の言葉を紹介しながら、家を出て働くということがいかに当事者にとって苦痛か(餓死は合理的選択でさえある)、また、斎藤環氏はご自分の立場として「数人の友人ができるまでが精神科医としての私のミッションだ」というのだが、本当のハードルは「それ以後」、つまり就労&その継続にあるのであって、多くの当事者は僕も含めて「経済的自立」の問題で行き詰まっている。これまで、日本のひきこもり関連のシンポジウムではパネラーは精神科医かカウンセラーだったわけだが、今後は労働や雇用問題の専門家にも参加してもらうべきではないか。


 会社勤めをしている友人の多くは、仕事をして生きていくことは本当に苦しいことだと繰り返し言い、「ひきこもっている人に、『家を出ればこんなに素晴らしい人生が待っているから、だから出ておいで』とは、とても言えない」とつぶやく。経済状況や労働環境の問題が、明らかに「ひきこもり」に関連しているのだ。【この1段落の内容は会議では触れていない】


 ハローワーク職業安定所)では、仕事の紹介はしてくれるが、心のケアはしてくれない。逆に精神科医に相談に行くと、精神的な悩みの話は聞いてくれるが、仕事のことを相談しても「まぁ、焦らずにいきましょう」としか言ってもらえない。
 多くの人は「仕事に就けない/続けられない」から深刻に苦しむのであって、心のトラブルと就労問題は密接に関連している。つまり、精神科医ハローワークの両方(厚生労働省の「厚生省」的側面と「労働省」的側面の両方)の機能をあわせ持った相談機関が必要なわけで、


 云々・・・・といったことを話した、わけだが・・・・。


 気がついてみれば僕の発言はほとんど顧みられないまま、「治療せねば」というテーマ性ばかりが先行してゆく。しまった。ここは「発展的な」発言を目指すべきじゃなくて、まずは斎藤環の主張をインストールしてもらわねばならない場面だったんだ*1。うかつだった。


 「ヒキコモリそのものを治療すべきというわけではない」という前提をすっ飛ばしていきなり「労働」の話をしてしまうと、「働け」という強圧的な説教と取られかねない。それを避けるためにも選んだアクロバティックな論点が「餓死」だったのだが、あの韓国側の雰囲気では、危機感を煽ってしまい、ますます「治療せねば」と思わせた気がしてならない。





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*1:いや、そもそも韓国側からすれば斎藤氏の主張も「日本側の事情」であって、「韓国側は韓国側」なのだろうか。この辺、今の僕にはまだよくわからない。