精神科医のミッション:≪精神の自由度を高める≫?

先日、ひきこもりに対して≪治療≫という言葉を口にする斎藤環氏に疑義を呈したのだが、それに直接関係するような発言が16日のイベント中にあったので、ここに記しておく。(ただし記憶とメモに頼った記録でありで、逐語的ではない。あくまで「一聴衆の受け取った大意」としてご理解いただきたい。*1


斎藤環氏:

 メンタルな健康は、「働いている人」と「働いていない人」の差は大きくない。 しかし、「対人関係を長期にわたって完全に失っている人」と、「対人関係のある人」とでは、はっきり差がある。 (孤立は、精神的苦痛を増幅する。)
 精神科医にとっては、「働いているか否か」はどうでもいい。 「働くか否か」は、≪趣味の問題≫である。 「健康」であればいい。 ところで精神科医にとって「健康である」とは、≪精神的な自由度が高い≫ということである(それは、脳髄に器質的な問題のない人にとっての課題である)。
 ひきこもりという深刻な状態においては、精神的な自由度が低い状態に追い詰められており、考え方が不自由になる。
 「なぜ生きなくてはならないのか」「なぜ働かなくてはならないのか」といった(ひきこもり当事者に典型的な)問い詰めは、普通「アノミー状態」、「思想の自由の結果」と見なされるが、実はそうではなく、「思想の不自由さの結果」ではないか。 それは、精神的な自由度の低い状態における、典型的なパターンではないか。 精神的な自由度が高まれば、自然と問わなくなるのではないか。



もう4年ほど、斎藤環氏の講演を繰り返し聞いているが、これは新規情報に思えた*2
≪治療≫は、「社会復帰」や「就労」のためではなく、≪精神の自由度を高める≫という目的に尽くすのみであるという。
人を「自由にする」要因は、もちろん個人的なレベルにのみあるわけではない。 だから斎藤氏の発言は、≪人を不自由にし、生きる意欲を失わせる「労働環境」その他の要因≫をまるで見ていないが、「臨床精神科医」という立場にある人間としては、これが倫理性の MAX ではないか。
反論し得るとしたら、「人は必ずしも、精神の自由度を求めない」云々や、「精神の自由度を高めた結果絶望し、自殺することもあり得る」といった話だろうが、これはまた入り組んだ議論であり、少なくとも論点のステージは、「無理矢理社会復帰させるのか!」「引き出し屋!」云々からは、切り替わっている。
精神科医斎藤環」氏に反論するのであれば、せめて議論をこのレベルに限定すべきだ。
そして斎藤氏の側も、ご自分のミッションをめぐる議論焦点を、≪精神の自由度を高める≫に限定されてみてはいかがだろう。 読者として、「すれ違い」感が少なくなる気がするのだが。





*1:イベントレポの是非について、議論が起こっているようです。 これは、いくつものイベントレポートをこのブログで公表している私にとっても他人事ではありません。 不正確なレポートが公表されることにより、発言者に迷惑がかかったり、公的にも悪影響が出たりする懸念はもちろんあるのですが、流通によるメリットもあると思われ・・・(現に私は、id:kwkt 氏のいくつかのレポートが大変参考になっています)。 ▼私自身は、ひとまず「不正確であるという留保つきのレポート」として、しかし可能なかぎり責任を引き受けた上で、公開し続けることにします。 ▼私も、自身の講演記録の公開を打診されたことが何度かありますが、講演記録の講演者本人による校閲は、(少なくとも私にとっては)原稿執筆に匹敵するほどの重労働です。 今の私は、「講演者校閲を経ていない記録である」という趣旨の断り書きを必ず入れていただく前提で、配布や公表に同意しています(しかし、まだ悩み中)。

*2:あるいは以前からされていた話に、私の意識文脈が反応しただけかも。