ネガティヴな刺激/ポジティヴな刺激

  • 「仕事がない」ことは、それ自体として価値観的に糾弾されるべきではない。問題は金がなくなり周囲も自分も困り果てているのに「働けない」状況だ。
    • ひきこもり自体は精神障害ではないが、現実に社会生活を営めないトラブルを抱えている。局面によっては「病・障害」という枠組みが必要だが、具体的には「ひきこもり」ではなく、鬱病強迫神経症パニック障害などで申請されるだろう。
    • 「福祉はムリだ」と安易に口にしたのは性急だったかもしれない。「社会や景気の状況がどうであるか」ということと、「為すべき福祉をどうするか」とは、直線では結べない。「環境が変われば障害は障害でなくなる」という視点も忘れたくない。
    • できる仕事を「探す」と同時に「創る」視点。 → 高齢化の進んだどこかの町で、葉っぱを販売して高収益を上げ成功していた。寝たきりの人が激減し全体として健康状態が改善した、という副産物まであったらしい。「仕事ができない」と思われている人に仕事を創ることには、個人的恩恵だけではなく社会保障費を減らすというメリットもある。
  • 「ひきこもり」は、まず価値観的選択を迫られる――「餓死するのか、それとも生き延びるのか」
    • 餓死を選択するならもはや悩まなくてよい。餓死は自己愛を温存したままでもできる。ただし場合によっては、その選択に親や兄弟姉妹を巻き込む。バトルが予想されるが、「黙って呆然と死を待つ」光景がいちばんリアルな気がする。
    • 「生き延びる」選択をした途端にあらゆる問題がなだれ込んでくる。
    • あきらめるとは、「もはや問題にしない」だ。
  • メンタル面を克服しても、仕事につけなければ生き延びられない。精神面の健康が仕事への就任を通じて改善したりもする。せっかく改善した精神的健康が無理な就労によって損なわれるケースも。 → 心のトラブルは社会的・経済的に存在しているとも言える。
    • ひきこもりの問題を、「就労せよ」という強制とは無縁のところで、あえて「働く」との関係で考えること。むしろ「働く」を中心に考え、ひきこもりとはその特殊なトラブルのあり方である、と考えること。
    • ひきこもりそのものを価値観的に肯定するのはいい。しかしイザ「生き延びよう」としたときの社会との接点を用意しないで「閉じこもっていればいい」というのは無責任すぎる。選択的に閉じこもれる環境も、社会的・経済的に用意される。
    • 「働く」を中心に考えると、ミクロな視点とマクロな視点、政治・文化面と経済面、内面事情と制度面、など、さまざまな視点から考えやすい。
    • メンタル面へのケアを支えるのは経済ではないか。
  • 「状況を変える」仕事と「一方的に従う」仕事。金は基本的に後者に舞い込む。そこに苦痛があれば前者を目指したいが、なかなか金にはならない。
    • 「従う」仕事の中に「変える」の萌芽を見つけるしかない。
    • 考えれば考えるほど言説の重要さを痛感するが、大学に職を得るぐらいしかないか。
    • 「怒り」というファクターを、どのように自分の活動に転化できるか。
  • やる気のない人間の増加は社会にとっても死活問題ではないか?
    • 「解雇される心配がない」とムチャクチャな勤務態度をとる公務員や教員。*1
    • 経済談義では消費者の depression ばかりが論じられるが、生産者の depression も考えるべきなのでは?
    • 生産者に対する欲望刺激が、遠回りなようでいて着実なのではないか。 → 画期的な成功例とたくさんの勉強が必要か・・・。
    • ネガティヴな刺激(働かないと食えない、悲惨な犯罪被害がある、など)とポジティヴな刺激(こんな面白い作品がある、○○すれば△△できる、など)。現代はネガティヴな刺激ばかり。――いや、いつもそうなのか。ポジティヴな刺激は稀で貴重だ。罵倒は簡単だが創造的生産は難しい。




*1:関西で放映中のTV「怒りの相談室」より