思考実験:≪「義憤vs権利」とマクロ政策的視点≫

ベヴァリッジ報告」を中心に、友人からレクチャーを受ける。めちゃくちゃ勉強になる。
やはり社会保障について政治的に説得するには、「弱者を救済せよ!」ではなく、「社会保障があったほうがマクロ政策的にいい」というスタイルが必要なのだと思う。


内田樹勝者の非情・弱者の瀰漫」より:

 「弱者を守れ」という政治的言説はいままったくインパクトを失っている。その声を「既得権益」を手放そうとしない「抵抗勢力」の悲鳴として解釈せよと教えたのが小泉構造改革のもたらした知られざる心理的実績である。

「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」はこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。

 こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである。



官僚の不正や無駄使いを「許せない」という層と、ニート・ひきこもりを「許せない」という層は同じだと思う。*1
どちらも、「義憤」の対象になっている。
しかし、社会的権力をもって税金を無駄遣いする人たちと、親の個人的資金で家に蟄居*2するだけの人を、どうして同列に論じられるのか。無能力によって家に閉じこもることは、「国家反逆罪」なのか。個人的資金で家に閉じこもるのは、個人の権利としては容認できないということか。
要は、「無能力によって」閉じこもる、という部分だろう。「労働の能力はあるが自覚的選択によって蟄居する」というのであれば、公的援助の対象であり得ないのはもちろん、勤労の義務に逆らってまで「働かない」という選択をしていることへの政治的自己弁明が必要になる*3
ましてや内田氏が指摘するように、いまの政治の流れは「無能力による蟄居」すら見捨てる方向だ。「能力はあるが自覚的選択によって蟄居する」のが、自己責任論にならないはずがあろうか。「われから望んで閉じこもったのだから、その帰結がいかに悲惨であろうが甘受せよ」。
「無能力ゆえに閉じこもらざるを得ない」という説得の段階から進んで、「蟄居は国民の権利」とまで言い得るだろうか。前者であっても非難されるのだから、後者を主張する困難は筆舌に余る。
ここで話が最初に戻る。「蟄居の権利を保障することが、マクロ政策的に有益である」という説得が、はたして可能かどうか。いやそれとも、マクロ的視点を度外視してでも、「国民の蟄居権」を認めるべきなのか。
本物の無能力から「純粋ひきこもり*4」状態にある人のことを考えれば、以上の考察は贅沢に見える。しかし、「蟄居してもいいんだよ」「それはあなたの権利だよ」ということが認められる状況であれば、逆に家を出て来やすいのではないか、労働の現場にも復帰しやすいのではないか――そういうことは考える。これは、「生活の最低限保障があれば、安心した人々はむしろ積極的に働くのではないか」という、僕のベーシック・インカムへの夢想的興味と重なっている。「一度の脱落もなく、延々と出ずっぱりで居なければならない社会」は、むしろ人を閉じこもらせるのではないか。「閉じこもっても構わない社会」は、むしろ安心して人を外に繰り出させるのではないか。【考えてみれば、蟄居は現在でも違法ではないのだから、その権利を認めることは、法の課題ではなく、むしろ市民的な規範のレベルにある…。】
まだまったくの思考実験だが、末端における国民の権利を認めることが、長期的にはマクロ政策的にも有効なのではないか、という視点は――まだまったく幼稚だけど――、問題意識や説得の姿勢として、持っておきたいと思う。【ただしこの場合、繰り返し注意せねばならないのは、「蟄居権を保障すべきだ」という話と、「本当に無能力(障害)ゆえに家を出られない人には保障が必要だ」という話とは、並行はしつつ別個に論じなければならない、という点だ。もう一度言う。「閉じこもる権利の保障」と、「最低限生活の保障」は、別個に考えなければならない。】


現状では、生活保護は条件付の給付であり、自覚的選択によって蟄居したのであれば給付の対象になり得ようはずもない。規範として「蟄居容認」を追求する運動に参加すれば、「ああ、あなたはみずから望んで閉じこもったのね」となって、生活保障を得る可能性を減ずる。いっぽう、自分が閉じこもっているのは「無能力」ゆえであることを強調すれば、「本来は外出して労働すべきである」という規範を補強することになる*5。蟄居容認の規範を追求しつつ、無能力者への生活保障を追求するという姿勢は、これほどまでにアクロバティックになってしまう。
ベーシック・インカムであれば、一定額の給付は「国民全員に対して無条件に」だから、「蟄居容認」の規範追求は何らの不都合をも生まない。給付があった上で、「閉じこもってもいいではないか」という規範を追求できるわけだ。【現実的に言って、無条件給付を前提にする以外、「蟄居容認の規範」を追求するのは不可能ではないか。自覚的に蟄居を求めるのであれば、それへの保障など求めようがないわけだが(自己責任論によって)、「本物の無能力」と、「自覚的選択による蟄居」は、合理的に判別する方法が存在しない。】


私は最近、ひどく心身の調子を崩したが、かくのごとく社会生活を送れている私が生活保護等の給付対象になり得ようはずもない。しかしある人が私に、あくまで厚意で、「上山さん、あなたは精神障害者かもしれないよ」と言ってくれたとき、本当に救われた。「できなくていいんだ」と思えた。▼人を精神障害者として扱うとき、それは「治すべき対象である」という強圧的な視点と同時に、「できなくていいんだ」という解除をももたらす。僕の思考は、つねに何かを為そうと緊張しつつ、そのような解除の周囲を回っている。能力向上と同時に、「できなくていい」という解除を望んでいる。そしてそのような解除があるときにのみ、何かが為せるように感じている。
このような論点はしかし、「競争に勝って、国を富ませなければならない」という国家レベルの課題からすれば*6、やはり黙殺されるべきなのだろうか。そういう視点も、僕はどうしても忘れられない。――だからこそ、個人レベルでの権利追求を、マクロ政策的なレベルとの関連で考えたくなる…。



*1:たとえばニート・バッシングを行なった『そこまで言って委員会』は、同時に繰り返し「官僚の不正・無駄遣い」を告発する。

*2:ちっきょ。家の中に閉じこもって外出しないこと。

*3:ひきこもりを非難する人は、つねに「拘禁して労役を課せ」「自衛隊に入れろ」といった話をする。日本の憲法と刑法では、国家が国民の自由を奪っていいのは国民が犯罪を犯したときのみであるはずだから、拘禁論者たちは、要するに「ひきこもり」を犯罪行為と見なしていることになる。

*4:工藤定次氏の言葉。ひきこもり状態の極限。

*5:不登校・ひきこもりについて、長田百合子氏と奥地圭子氏はともに「病気ではない」と主張し、それがともに「働けるはずだ」という規範に結びついている。

*6:競争に負けて国自体が没落すれば、社会保障もへったくれもない。