フィクション

 「動物化」することは、むしろフィクションを必要としない生き方だ。「生きる意味」を探すひきこもりの方が、むしろフィクションを必要とするらしい。 → 「言葉との付き合い方」が変わってきているわけだが、その辺どうよ?
 僕は言語を消費財と見なさず、自分を「意味ある行動」へ導いてくれる導線のように考えている。これでは、言語と付き合いながら一瞬たりとも休めない。 → 本を読めない理由はその辺か? 意味への関係から自由になれない言語は実はアタマ悪いという気がする。このアタマの悪さは、他者の欲望との接点を作るにあたっての要領の悪さにも通ずると思う。