タッキー

 滝本竜彦氏については、ちゃんと考える必要があるという気がしてきた。彼の言語は、僕と違って対象への意味に縛られていない。僕の言語はすぐに意味と対象とに粘着するが、彼の言葉は基本的に「冗談」でしか使われない。僕が『超人計画』と言ったらシャレにならない真剣計画だが、彼が言うと最初からちゃんと冗談なのだ。言葉との付き合い方が僕とは根本的に違う。
 ただ、フィクションを語っているときの彼はたしかに軽やかなのだが、『ファウスト』第1号の「ぐるぐる人生相談」では、最後のところで「おや」と思うぐらいに「真剣」になってしまっている。やはり、地の文で自分の言葉を語るのと、フィクション内のキャラクターとしてカギ括弧つきで自分の言葉を語るのとでは、やり方が違うのかな。・・・・このへんは、論じていくとフィクション論になるのかな?――そういえばロシアの思想家ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの作品を論じて、「小説では彼の作品世界はおそろしく豊かなのに、『作家の日記』では急に視野が狭くなる」とか言ってた。対話的な作品世界から、独白的「地の文」へ。