「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」をめぐって

1回ここにアップするとそのまま寝込んでしまう、というような状態が続いていて、どうも我ながら危機的です…。
「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」というエントリーに、コメント欄をはじめ様々のレスポンスをいただきました。 論点を網羅することはできませんが、今の時点で気付いたことをいくつか。



安楽死が正当化される条件

東海大病院・安楽死事件の判例では、「積極的安楽死の4条件」として、次が示された*1

 (1) 耐え難い肉体的苦痛がある
 (2) 死が避けられず、その死期が迫っている
 (3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
 (4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある

ひきこもりが明白に満たし得る条件は(4)だけ。 (2)については「餓死」しかない。
「精神的苦痛も肉体的苦痛と言える」は、現状ではほぼ不可能な主張。 → (1)は無理。


大事なのは、(3)の「他に代替手段がない」と言えるかどうか。 → 後でも触れるが、これを私的・公的に俎上に載せることこそが重要。





*1:こちらより。

「自発的」のみです

id:anhedonia さん

 ひきこもりにとって《決断》することが最大級の苦痛だから、ひきこもりにとっての安楽死とは、「自殺のための決断(自己決定)を回避して『気が付いたら死んでいた』状態にする」つまり、限りなく他殺に近い状態で死ぬことを目指してるんだろうと思う。

僕の提案は「自発的安楽死*1、すなわち当人の意思による場合だけです。 → 君が代の強要による辞任が「自発的」とされるように、死の選択が本当に「自発的」か?というのは、繰り返し問われるべきだと思います。




loveless zero さん(2004/06/24):

 選択肢は提供されていいと思いますが、「本当にダメな人」かどうかの判断の困難さからは逃れられないでしょうね…。

立岩真也氏も懸念する通り、「お前は無価値だから死ね」は断じて避けられるべきです。
しかし、家族に扶養能力がなくなり、本人も家族も「自立は無理」と考えていれば、「もうダメだ」という認識になると思います。 → そこでやはり、「本当にダメなのか?」が問われますが、(あとでも触れますが)大事なのはこの問いの共有なのだと思います。





*1:ひとまずこちらの言葉遣いを踏襲しました。

SOL(生命の尊厳) と QOL(生活の質)

「日本尊厳死協会」では、尊厳死を「自分の意思で延命治療をやめてもらい、安らかに、人間らしい死をとげること」としていて、「安楽死=他殺」と区別しているようです。 しかし、「安らかに人間らしい死をとげる」のは「当然追求されるべき目標」なので、これでは「尊厳死は是か非か」は無意味な問いになってしまう。 →

 これに対して、「尊厳死を実現するにはどのようにすればよいか・するべきか」が問題となる。 ことに「死」以外に人間らしさを保つ方途がないと判断される場合に、意図的に死をもたらすことが「安楽死」と呼ばれる。*1



ひきこもりに対する延命努力(扶養)を「本人の意思で」停止し、餓死を迎える、というのは「尊厳死」でしょうか…*2


安楽死尊厳死)においては、SOL(Sanctity Of Life、生命の尊厳)と、QOL(Quality Of Life、生活の質)が対立するようです。 「生命は無条件に尊い(だからどんなことがあっても延命せねばならない)」と、「悲惨で改善不可能の生は生きるに値しない」の対立。 → 僕は明白に後者の立場です。 もんだいは「本当に改善不可能なのか」ということ。(当たり前ですが、改善可能なあいだは徹底的に改善努力をすべきです。)





*1:こちらより。

*2:餓死は苦痛を伴うので、とても「安楽」死とは言えませんが…。

積極的と消極的

積極的安楽死(死なせる kill)と、消極的安楽死(死ぬに任せる allow to die)。
斉藤環氏が強調していますが、重度のひきこもりは放置されれば自律復帰はまず不可能。 → 社会がひきこもりに無対策であるなら、それは「消極的安楽死」に近い。 「放っておけば死ぬしかないが、あえて何もしない」のだから。
いや、厳密には「消極的(何もしない)」ではあっても、「安楽死」ではないですね…。 「餓死しろ」 「死にたい奴は首を吊れ」というのは、「安楽死」の話ではない。 それは「悲惨の中に放置する」ことです。 → せめて「セデーション sedation」(意識レベルを下げて、苦痛を感じないようにすること)に社会が手を貸せば、より人道的であるでしょうか*1


問いを仕切りなおすと、次のようになると思います:

 社会はひきこもりを「悲惨の中に放置」しているが、それで構わないか。
 ひきこもりを「生の世界に引き戻す」努力を模索すべきではないか(延命と苦痛緩和)。
 しかし、そこには取りこぼしが必ずあるのだから、絶望的事例については「積極的安楽死」、せめて「セデーション(鎮痛処置)」を、可能な社会的選択肢として検討すべきではないか。






*1:現実には、安定剤などを処方する精神科医が、その任をすでに部分的に担っているということでしょうか。

「都合のよい自己決定」

立岩真也氏が懸念するのは、「本人以外にとって都合のいい安楽死」という点だと思います*1

 具体的に誰にとって都合がよいのか。 負担を免れる人にとってである。 家族だけがその負担を負っている、負わされているなら家族であり、また社会的に医療や介護の負担をしている場合にはその「社会」である。 結局、私たちが、私たちにとって都合のよいものとして、自己決定としての安楽死を支持するのである。*2



本人自身が、自分の身体的苦痛のみを考えて死を決断するのではなく、「自分は周囲に迷惑をかけているから」死を選ぶ、というのであれば、それは「自発的」に見えて本当は「バイアスに屈した」だけではないのか、と。 【これは上山による敷衍です。 繰り返しになりますが、これは「自発的辞任」への疑問と同型ではないでしょうか。】
ひきこもりに「耐えられないような苦痛」が伴うとしても、それはひとまず「身体的な原因を持つ」とは考えられず、それゆえ「バイアスに屈する」要因はより大きいと考えられる。


「なぜ苦痛なのか」、「なぜ死にたいと思ってしまうのか」は、充分検討されなければならない。





*1:僕はネットや著作の必要な箇所を読んだだけですが…。 間違いはぜひご指摘くださいませ。

*2:『弱くある自由へ』ISBN:4791758528 p.54

「極小値=特異点=出口なし」?

id:essa さん

 なんとも途方もないような重い話ですが、id:ueyamakzk さんにとってはすごく現実的な話ではないかと想像します。 ひょっとしたら、ueyamakzk さんは、それ以外に苦痛から逃れるすべを持たない人の顔を具体的に何人か思い浮かべながら、こういうことを考えているのかもしれません。

essa さんにはいつも貴重な励ましをいただくのですが、今回も非常にうれしいご指摘です。
僕は、実際に有料でご相談に対応したケースは極めて少数ですが、その全員が、「この人は、ほっといたら死ぬな」という状態だった。 しかも、ものすごく強烈な苦痛を伴っている。 → この点への(世間一般の)想像力のなさに、僕は本当に苛立っています。


対人訓練や職業訓練といった、「生に向けての苦痛緩和」は最後まで試みられるべきですが、やはり「苦痛緩和」というテーゼを掲げている以上、「どうしようもないケース」については、「安楽死」も視野に入れたくなる。

 比較級で社会や経済が成り立っている以上、集団の中に極小値は存在します。理論的には、人間と人間を比較することが可能であるとしたら、そして人間が有限個しか存在しないのであれば、「引きこもり」のような存在は避けられません。 それは数学的に証明できる事実です。 極小値を引き受ける人は、痛みや無能力を一方的に受け続けなくてはなりません。

比較級である以上、「極小値は必然的に存在する」のはわかりますが、それは必ずしも「ひきこもり」という状態像を取らなくてもいいですよね。 日本以外では、「極小値」はおそらくホームレスや自殺で、日本でもこれから「ひきこもり」は「ホームレスや自殺」にシフトしていくのでは、と一部の人*1は予想しています。
【現在40代後半以上の「親世代」は、働けない子供を「我慢強く扶養」しましたが、個人主義的な「新人類」以下の世代では、やはり「家を追い出す」のではないか、と。 最近「児童虐待」が多く報告されているのも、その前触れのように思います。】

 「有限の要素を対象にした推移律を満たす比較」は必ず特異点を産む、そして流動性の高い現代社会は特異点の露出しやすい社会なんだと思います。 そこまでは論理的必然です。 問題は特異点にも顔があることです。 具体的な顔のある問題としてこの問題をつきつけられたら、私はどうしたらいいのかわかりません。

理系のタームがわかりにくいのですが、「特異点=極小値」でしょうか。 「特異点」については、翌日に次のようにお書きになっていますが、これは(比喩ではなくて)純粋に理系の話でしょうか?

 特異点は、事象の地平線、つまり我々の知覚の及ばない「あちら側」にないといけない。 特異点が露出するとかなり困る。

比喩として考えてみると、「社会の特異点たるひきこもりは、社会的に表面化(露出)すると困る」となり、興味深い話になります。 意地悪く理解すれば、「放置され黙殺されるべきだ」というような。


id:essa さんは「顔のある特異点」についてはどうしたらいいかわからない、とおっしゃっていて、これは大事かもしれません。 以前、「当事者は実名を晒すべきか」を話題にしたとき、「顔が見える」ことの大事さが問題になりました。 ひきこもりというのは「何かわからんが不気味な連中」というだけでは、容易に切り捨ての対象になってしまう。 社会的な感情移入が駆動するためにも、「顔のある」存在になる努力は必要かも。――いや、それとも「感情移入」に頼る時点でダメなのでしょうか。 「法的・制度的な問題」としてドライに論ずべき? しかし、社会的な感情移入が希薄な問題が、真面目な議論のテーマになるでしょうか…。
→ その意味で、実際の実現可能性は低くとも*2「ひきこもっている人に安楽死を希望する人は多い」というテーゼを持ち出すことには、一定の効果がないでしょうか(そしてそれは「演出のための誇張」ではないと思います)。





*1:斎藤環さんなど

*2:上記のとおり、現状では「ひきこもりのための安楽死」はほぼ不可能でしょう。

「私、安楽死を希望します」の模擬ミーティング

今日のエントリーで繰り返し参照させていただいた清水哲郎氏は、「安楽死が倫理的に正当化される条件」として、上記の判例のほかに、次の項目を付け加えています

 (c) 患者の意思確認のプロセスは十分なコミュニケーションとケアによるものである
 (d) 医師の独断ではなく、医療チームとしての合意による

僕が「ひきこもりのための安楽死尊厳死)」の提案においていちばん重要だと思う契機がここです。
当人に「死にたい」という決意があるとして、それが他の人と共有され、検討されること。

  • 本当に死ぬ必要はあるのか。 他の苦痛緩和の方法はないのか。
  • 苦痛の原因は本人に還元されるべきなのか。 それとも社会環境や周囲の人間に改善すべき点もあるのか。
  • 死ぬことによるメリット(苦痛からの解放、周囲への負担の終焉、など)と、デメリット(泣き寝入りのまま死ぬ屈辱、家族を悲しませる、など)は何か。

こうしたミーティングそのものに意味がある。
→ ひきこもりに対して実際に(薬剤投与などによる)安楽死機会を提供するのは無理でも、「模擬ミーティング」として、「私、安楽死を希望します」というのは、導入されていいのではないか。

  • 当人は、どうやって周囲を説得するか。 → ミーティングの結果、「生きたい」になるのか。
  • 周囲は、どうやって当人を説得するか。 → ミーティングの結果、「死になさい」になるのか。

単に「死にたい奴は勝手に自殺しろ」では、この「ミーティング」のプロセスが一切共有されないため、やはり不毛だと思います。





おびえ

今回の僕の「安楽死」エントリーについて、「社会的役立たずとして抹殺されるのではないか」というおびえの声があがったことは、注記すべきだと思います。 立岩真也氏によれば、「どの国でも障害者の組織は安楽死に反対してきた」*1。 ひきこもりは、他の社会的マイノリティ(弱者)と同じく、つねに「お前たちさえいなければ社会はもっとうまくいくのに」というプレッシャーを感じているのだ。 その状況で口にされる「安楽死」は、まかり間違えば容易に「虐殺」にすり替わる(そこでは当然、「健康」をスローガンにしたナチズムを想起すべきだろう)。


ただ(これも論点の繰り返しになりますが)、「ひきこもりを問題にしない(放置する)」は、この社会の「優勝劣敗」「弱肉強食」に同意することでしかなく、それは(直接の手を下さずとも)、ひきこもり当事者が社会的に抹殺されていくプロセスを放置することだと思います。 「ひきこもりなんて、(残虐に)死んでも仕方がない」。
そう考えれば、やはり現状よりは「自発的安楽死」のほうが慈悲的ではないでしょうか。 少なくとも、「苦痛緩和」の目論見が含まれているのですから。





*1:『弱くある自由へ』ISBN:4791758528 p.61

「人間の苦痛緩和」

繰り返しがあったり、いただいたコメントを取りこぼしていたりして穴だらけですが、ひとまずこんな感じでしょうか…。


僕は(立場上)話を「ひきこもり」に限定しましたが、

  • 「苦痛緩和の選択肢としての安楽死尊厳死)」は、「経済的困窮」や「精神的苦痛」に対しても適応可能なのか
  • 安楽死を希望します」の模擬ミーティングには、様々な可能性が秘められていないか

という点は、もう少し一般的に議論されてもいいのではないでしょうか。


安楽死について考えるうちに、やはり「人間の苦痛緩和」の複雑さ・悩ましさを痛感します。 「何をどうすれば楽になるか」が、とても難しい。


生きることそのものがあまりに苦しく、「あえて生きていく」ことをどうしても動機づけられないときには、「楽に死ねるかもしれない」のみが無上の甘い蜜に見え、(なんとも皮肉なことに)それが行動を動機づけたりする。――そういう点も、無視したくはありません。