今日のエントリーで繰り返し参照させていただいた清水哲郎氏は、「安楽死が倫理的に正当化される条件」として、上記の判例のほかに、次の項目を付け加えています。
(c) 患者の意思確認のプロセスは十分なコミュニケーションとケアによるものである
(d) 医師の独断ではなく、医療チームとしての合意による
僕が「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」の提案においていちばん重要だと思う契機がここです。
当人に「死にたい」という決意があるとして、それが他の人と共有され、検討されること。
- 本当に死ぬ必要はあるのか。 他の苦痛緩和の方法はないのか。
- 苦痛の原因は本人に還元されるべきなのか。 それとも社会環境や周囲の人間に改善すべき点もあるのか。
- 死ぬことによるメリット(苦痛からの解放、周囲への負担の終焉、など)と、デメリット(泣き寝入りのまま死ぬ屈辱、家族を悲しませる、など)は何か。
こうしたミーティングそのものに意味がある。
→ ひきこもりに対して実際に(薬剤投与などによる)安楽死機会を提供するのは無理でも、「模擬ミーティング」として、「私、安楽死を希望します」というのは、導入されていいのではないか。
- 当人は、どうやって周囲を説得するか。 → ミーティングの結果、「生きたい」になるのか。
- 周囲は、どうやって当人を説得するか。 → ミーティングの結果、「死になさい」になるのか。
単に「死にたい奴は勝手に自殺しろ」では、この「ミーティング」のプロセスが一切共有されないため、やはり不毛だと思います。