積極的と消極的

積極的安楽死(死なせる kill)と、消極的安楽死(死ぬに任せる allow to die)。
斉藤環氏が強調していますが、重度のひきこもりは放置されれば自律復帰はまず不可能。 → 社会がひきこもりに無対策であるなら、それは「消極的安楽死」に近い。 「放っておけば死ぬしかないが、あえて何もしない」のだから。
いや、厳密には「消極的(何もしない)」ではあっても、「安楽死」ではないですね…。 「餓死しろ」 「死にたい奴は首を吊れ」というのは、「安楽死」の話ではない。 それは「悲惨の中に放置する」ことです。 → せめて「セデーション sedation」(意識レベルを下げて、苦痛を感じないようにすること)に社会が手を貸せば、より人道的であるでしょうか*1


問いを仕切りなおすと、次のようになると思います:

 社会はひきこもりを「悲惨の中に放置」しているが、それで構わないか。
 ひきこもりを「生の世界に引き戻す」努力を模索すべきではないか(延命と苦痛緩和)。
 しかし、そこには取りこぼしが必ずあるのだから、絶望的事例については「積極的安楽死」、せめて「セデーション(鎮痛処置)」を、可能な社会的選択肢として検討すべきではないか。






*1:現実には、安定剤などを処方する精神科医が、その任をすでに部分的に担っているということでしょうか。