「極小値=特異点=出口なし」?

id:essa さん

 なんとも途方もないような重い話ですが、id:ueyamakzk さんにとってはすごく現実的な話ではないかと想像します。 ひょっとしたら、ueyamakzk さんは、それ以外に苦痛から逃れるすべを持たない人の顔を具体的に何人か思い浮かべながら、こういうことを考えているのかもしれません。

essa さんにはいつも貴重な励ましをいただくのですが、今回も非常にうれしいご指摘です。
僕は、実際に有料でご相談に対応したケースは極めて少数ですが、その全員が、「この人は、ほっといたら死ぬな」という状態だった。 しかも、ものすごく強烈な苦痛を伴っている。 → この点への(世間一般の)想像力のなさに、僕は本当に苛立っています。


対人訓練や職業訓練といった、「生に向けての苦痛緩和」は最後まで試みられるべきですが、やはり「苦痛緩和」というテーゼを掲げている以上、「どうしようもないケース」については、「安楽死」も視野に入れたくなる。

 比較級で社会や経済が成り立っている以上、集団の中に極小値は存在します。理論的には、人間と人間を比較することが可能であるとしたら、そして人間が有限個しか存在しないのであれば、「引きこもり」のような存在は避けられません。 それは数学的に証明できる事実です。 極小値を引き受ける人は、痛みや無能力を一方的に受け続けなくてはなりません。

比較級である以上、「極小値は必然的に存在する」のはわかりますが、それは必ずしも「ひきこもり」という状態像を取らなくてもいいですよね。 日本以外では、「極小値」はおそらくホームレスや自殺で、日本でもこれから「ひきこもり」は「ホームレスや自殺」にシフトしていくのでは、と一部の人*1は予想しています。
【現在40代後半以上の「親世代」は、働けない子供を「我慢強く扶養」しましたが、個人主義的な「新人類」以下の世代では、やはり「家を追い出す」のではないか、と。 最近「児童虐待」が多く報告されているのも、その前触れのように思います。】

 「有限の要素を対象にした推移律を満たす比較」は必ず特異点を産む、そして流動性の高い現代社会は特異点の露出しやすい社会なんだと思います。 そこまでは論理的必然です。 問題は特異点にも顔があることです。 具体的な顔のある問題としてこの問題をつきつけられたら、私はどうしたらいいのかわかりません。

理系のタームがわかりにくいのですが、「特異点=極小値」でしょうか。 「特異点」については、翌日に次のようにお書きになっていますが、これは(比喩ではなくて)純粋に理系の話でしょうか?

 特異点は、事象の地平線、つまり我々の知覚の及ばない「あちら側」にないといけない。 特異点が露出するとかなり困る。

比喩として考えてみると、「社会の特異点たるひきこもりは、社会的に表面化(露出)すると困る」となり、興味深い話になります。 意地悪く理解すれば、「放置され黙殺されるべきだ」というような。


id:essa さんは「顔のある特異点」についてはどうしたらいいかわからない、とおっしゃっていて、これは大事かもしれません。 以前、「当事者は実名を晒すべきか」を話題にしたとき、「顔が見える」ことの大事さが問題になりました。 ひきこもりというのは「何かわからんが不気味な連中」というだけでは、容易に切り捨ての対象になってしまう。 社会的な感情移入が駆動するためにも、「顔のある」存在になる努力は必要かも。――いや、それとも「感情移入」に頼る時点でダメなのでしょうか。 「法的・制度的な問題」としてドライに論ずべき? しかし、社会的な感情移入が希薄な問題が、真面目な議論のテーマになるでしょうか…。
→ その意味で、実際の実現可能性は低くとも*2「ひきこもっている人に安楽死を希望する人は多い」というテーゼを持ち出すことには、一定の効果がないでしょうか(そしてそれは「演出のための誇張」ではないと思います)。





*1:斎藤環さんなど

*2:上記のとおり、現状では「ひきこもりのための安楽死」はほぼ不可能でしょう。