現状確認

興味深いコメントをたくさんいただいているのに、更新遅れてすみません。 話が大事なところに差し掛かっているせいもあるのですが、個人的につらいことがあったり、体力的にダウンしたりしてました(19日はデビューネットさえ休んでしまった)。
迷走するとは思いますが、でもなんとかこの議論を続けてみたいと思います。



コメント欄

17日のコメント欄は、大事な投稿をたくさんいただきました。 以下、僕なりに整理してみます(自由間接話法みたいにさせていただきます)。 奥まった段落が僕のレスポンスです。

  • id:anhedonia 氏: 「社会」や「国」を口にする人に「公」の意識があるわけではない。 「公」とは、批判的姿勢を維持する「まなざし」ではないか。
    • ありがとうございます。 こういうことを言っていただけるとホッとします。


  • nonaka 氏: 公私の境界をめぐる議論はパフォーマティヴ。
    • おっしゃること、とてもよくわかります。 ただ、コンスタティヴなレベルでちゃんと論じ、制度的なものに働きかけることは、パフォーマンス・レベルにも影響を持つのではないでしょうか。 たとえば「それは法で禁じられている」という発言が可能かどうかは、パフォーマンスとして決定的です。
    • 既存の法や規範意識では扱い切れない「公私の境界」の問題が生じている、ということでしょうか(著作権やセキュリティ問題のように)。 → 「ひきこもり」を題材にして、「公私の境界」の危うさを論じることができないでしょうか。


  • miyagi 氏: 「主観と客観」
    • 「客観」は、社会的な現実の中では「ヘゲモニー争い」の問題なんでしょうか。 「誰の主観的主張が“客観的”と見なされるか」というような。




  • id:aimee 氏: 「世間」は英語に翻訳できない。 → id:igi 氏: 「otaku」「hikikomori」のように、「seken」として説明を試みる態度がいいのでは。 【→ 「seken」でググってみました。】
    • ここの、「Seken-tei は日本の社会を内部と外部に分割する」は重要。 → 「世間体を気にする」と「公的な意識を持つ」とは同じではない。
    • こちらでは、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり(仏のみが真)」という聖徳太子の言葉が紹介されている。 → 「世間は間違っていて、自分だけは正しい」という反転にも使える。


    • 「世間知らず」は、「世間体」とは微妙に違うことを言っている気がする(同じか?)。 「世間はキレイゴトではすまない」というような。
    • 阿部謹也氏の本を注文してみましたが、アマゾンのレビューによると、「個人」や「社会」は明治20年代に輸入された概念とのこと。 → 概念に「和製」と「国外産」で分け目がある?


    • ひきこもり当事者の自意識は、「自分だけ間違っている」と「自分だけが正しい」の両極を往復しているように見える。 「自信を持って主張しつつ、正当な批判は受けいれる」というバランスがない。
    • 同じことは、「ひきこもりについて発言する人」にも言える。 ひきこもり」は、なぜか日本人のすべてを「にわか評論家」にする。





id:jouno 氏にご紹介いただいたページの記述と、投稿コメントを引用します(強調は引用者)。

 ハバーマス系統の社会理論のキー概念のひとつに「公共性」があります。(中略)
 公共性とは、たしかに「私的なもの」と対立する概念ですが、同時に政治権力とも対立する概念なんです。

# jouno 『コミュニタリアンおおやけは、ひとつの「善」であり立場ですが、公共とは、複数の「善」を両立させるための、そして複数の「善」から個人を守る「距離」としてのロールズ的な「正義」にかかわるのではと思います。』

  • 「公」は共同体主義でも語れるが、単一的な善。 「公共」は、「複数の善」を共存させる「距離」。
    • この「公共性」の説明を聞いて、「これはいわば≪対話の場を維持する≫姿勢ではあるが、そういう≪声の複数性≫そのものを認めない人にはどう対処するのか」が難しいと思いました。 「民主主義それ自体は排他的絶対性である」というような。
    • 東浩紀id:hazuma)氏の言う「否定神学」と「複数の超越論性」の区別は、ぜんぜん関係ないでしょうか。


    • 「ハバーマス」や「ロールズ」という名前がどんな立場につながっているのか、それさえ知らなくて…。 「ハバーマス的公共性」や「ロールズ的正義」は、日本の憲法や法律について考える際にも重要なのでしょうか。
    • とまれ、「公と公共のちがい」という軸を導入いただき、本当にありがとうございます。 初歩的な認識なのかもしれませんが、僕には必要なご指摘でした。






憲法・公私・単独性

憲法対論』ISBN:4582851649、ようやく第1章読了。 ひきこもりを考える上で必読と感じました。
1年前の僕なら、たぶん読めなかった。 致命的なものを扱う言葉が自分の中に成長するのに、これだけ時間がかかった、ということかもしれません。 僕は斎藤環氏の『社会的ひきこもり』ISBN:4569603785 が(おそろしくて)ずっと読めず、ようやく読んだのは(親の会での)カミングアウト後、支援活動を本気で検討し始めてからです*1。 内面的・外面的な文脈が熟さないと、(おそろしくて)とても読めない本、というのがあるのだと思います。


ひとまず、絡まりあう3つの軸を確認しました(これも自由間接話法的にやってみます)。

  • (1)憲法
    • 直接「天皇」を論じることはできず、やはり「憲法」との関係で考えないと…。
    • 「自分も他人も、手段としてではなく目的として遇せよ」というカントの命題を、「日本国憲法が当然の理として踏まえている原理」とする奥平康弘氏の発言に感動。
    • それが「生活経験の代替可能性」と関係する、というのは新鮮な知見。


  • (2)公共/公/私
    • 日本の「組織の目的」がはっきりしないために、公(公共)に尽くそうとするトップランクの学生は公務員を見切り、外資コンサルタント会社を目指す。
    • 「公的意識を持ってしまうと、逆に排除される」 → 昔は終身雇用だったから「我慢」に意味があったが、今はそれもない → 「組織への忠誠」には(公的にも私的にも)何の意味もない。
    • 「私益のために公益を売る輩は許せない」、「公益を騙って私益を追求する連中は許せない」(p.42)と宮台真司氏は主張してきた、とのこと。
    • 実存不安と結びついた、「システムを自覚して正しく生きたい」という社会運動。


  • (3)特殊性/単独性
    • 「祭り的“国粋”は、“愛国”の態を成さない」(p.48) → そこで「愛」の対象になっている「国」は、特殊性(確定記述の束)なのか、トートロジックな単独性*2なのか。
    • 宮台氏は、憲法的な「個人レベルの代替不可能性」を問題にするだけでなく、(三島由紀夫氏の名前を出しつつ)「国レベル」でも「代替不可能性」を問題にしているように見える(p.30)。
    • 僕は「国」は、行政登録等の「機能的存在」(特殊性)としか理解していなかったが、昨今の「愛国心」をめぐる議論は、そこに収まらないように見える。 「単独的な日本への愛」を口にすることは、「統治と動員のスキーム」として「あえて」持ち出されているだけ、と見過ごすことはできるか。



憲法を認めない」派には、「あれはアメリカに押し付けられたものだから」という主張があるようです。 つまり、「日本固有の憲法を!」=「代替のきかない日本にふさわしい、(代替のきかない)単独的な憲法を!」と。 → 「憲法意思」そのものを「やまとごころ」に置きかえよう、ということでしょうか。
いっぽう、「日本国憲法は、特殊性(確定記述の束)として至上である」と考えれば、逆に「世界中の国が日本国憲法(と同型の憲法)を採用すべきだ」ということになる。(これは「日本が世界を支配する」とはまったくちがう。)





*1:僕の持っているのは「2000年6月27日第9刷」。カミングアウトは同年6月です。

*2:シェイクスピアになぞらえて言えば、「おお日本、どうしてあなたは日本なの!」

「強制された自己決定」

最近、東京の小学校のPTA会長(僕と同い年)が、公の場で日の丸・君が代問題に触れたところ、辞任に追い込まれたそうです。 朝日新聞の記事であることを差し引いても、これが事実だとしたら本当におぞましい。

  • 「お子さんがいじめられるかもしれない」
    • 予想される子供たちのイジメ行動への黙認宣言、という形での脅迫(「ご家族が危険に晒されますよ」)。
    • 「私がいじめるわけではない」から、「私の責任ではない」。
    • 「イジメが起こってもやめさせるから安心しろ」とは、誰も言わない。 (「イジメをやめさせる」ことへの無力感がある。)


  • 「PTAは思想的に真っ白であるべきだ」
    • よく聞くフレーズだが、「思想的に真っ白」なんてあり得るのか。
    • 「真っ白」、すなわち「無垢」が、「政治的な正しさ」のアリバイ表現になっている。


  • 「辞任は本人の意思」
    • 「問答無用の弾圧による不可避的選択」を、「本人の自己決定」にすり替えている。



僕は「ひきこもり当事者のための選択肢を増やせないか」と思って天皇の話をしたのですが、やはり既存の文脈では、「天皇」の話はすなわち「日の丸・君が代問題」であり、それは「選択肢の豊饒化」ではなくて「選択肢の抹殺圧力」。


「世間が許さない」は、「日の丸・君が代」と連動していないでしょうか。 「ひきこもることは、日の丸に逆らうことだ」というのが、保守派の言い分なのでは。 もっとはっきり言えば、「ひきこもりは、非国民だ」と言われているのではないか。





「自己決定」: 陛下と国民

憲法対論』、精読したのは第1章までなのですが、斜め読みで全体を見渡したとき、次のような一節が。(強調は引用者)

 ほとんど憲法学者が問題にしているように感じられない、僕一人というつもりはないけど、でも僕が非常に強調して考えていることの一つの問題があるのです。 もし天皇制問題で違憲問題が今の日本国憲法の中にあるとすれば、皇室典範の第一条(女帝の排除)ではなく、天皇、皇太子、皇太孫には退位の自由がないということです。 これは決定的に憲法違反だと僕は思う。*1



天皇陛下は≪国民≫か」という論点に関わると思うのですが、次のようなことでしょうか。
国民は、陛下にそのお立場を無条件に押し付け、それを「陛下の自己決定」にすり替えている。 現在の陛下はさいわい「ご自分の意思で(そのお立場を)選択した」のだとしても、それは偶然的なものであって、「選択しない権利」自体がないのはおかしいではないか、と。 → ここには、「国民が日の丸を拒絶できない」のと同型の論理がないか。


僕が雅子妃に注目したのもこの辺のことです。 ご成婚前の報道を見ていた方は覚えておられると思いますが、独身時代の雅子さんは、どちらかというとあまり笑わない、決然とした印象の方だった。 → ご成婚と同時に、「作り笑い」と言いたくなるような笑顔だけになった。
あれは「ご本人の自発的笑い」なのか、それとも「強制された笑い」なのか。 国民が日の丸を振って「雅子さまー」と呼びかけるとき、それは「あなたは(日の丸を振る国民に)笑ってくれる人ですよね?」という強制になっていないか。
皇太子のご発言によれば、雅子妃は「皇室になじむ」ご尽力をされたそうで、だから挫折しても、「皇室に嫁いだのは自己責任」などとは言われないと思います。 しかし、逆に言えば「雅子妃が感じているプレッシャー」は問題にしなくてもいいのか。 そこには、国民一人一人が感じているプレッシャーの雛型がないか。 そのプレッシャーに、国民一人一人が加担しているのではないか。(つまり、国民一人一人のあり方が、国民自身への理不尽なプレッシャーを形作っていないか。)


「日本国民として自己決定せよ、さもなくば非国民だ」という矛盾した論理(脅迫)は、いまなお日本国内において現役ではないでしょうか。
繰り返しになりますが、「ひきこもりへの説教」には、これと同型の枠組みを感じます。





*1:p.219。 憲法学者、奥平康弘氏の発言。

≪陛下の御意≫の地位 (「本物」か「形式的承認」か)

226事件においては、天皇陛下への最高の忠誠を誓った人たち(皇道派)が、陛下ご自身によって「逆賊」とされ、処刑された*1。 「これこそが陛下のご意思のはずだ」という皇道派の思い込みが、陛下ご自身によって否定された*2
同じことを、現代の右翼について言えるだろうか。 つまり、「右翼の言動は、(平和主義的な)今上陛下のご意思に反する」と、素朴に言えるだろうか。


僕がここで思い出すのが、ジジェクが(ヘーゲルを参照しつつ)言っていた、「≪我欲す≫の形式的承認」の話。
つまり、陛下が儀式の中で「わたしは○○を望みます」とおっしゃった場合、それは「陛下ご自身の意思」ではなく、閣議決定に対して(象徴的な特異点にいる者として)「形式的承認」を与えているに過ぎないのだ、という話。 もし仮に閣議決定の内容が陛下ご自身の個人的意思に反するとしても、「天皇陛下」というご公務にあるお立場としては、「私は望みます」と言わなければならない。
「誰が陛下の≪本物のご意思≫を代弁しているか」*3としてしまうと、陛下を巡る承認闘争になってしまう(「天皇陛下がこうおっしゃっていた」が、誰にも逆らえない最終審級になる)。


僕が「ひきこもり経験者」および「支援を考える者」として、「天皇」という話を持ち出してきた最も核心的な着眼点がここにあります。 つまり、「弱者の行なう正義の主張」であっても、それが(「我欲す」の形式的承認を経て)「陛下のご意思」として主張できるのであれば、社会的に無視することはできないのではないか。
たとえば「ひきこもりは非国民だ」という罵倒に対して、「その発言は陛下のご意思に反する。 よってあなたこそが逆賊だ」と言えるのではないか。


今上陛下ご自身は、おそらく本当に「非国民」などという野蛮な罵倒を嫌われそうにも思いますが、そうした「個人的ご意思への国民の詮索」とはぜんぜん無関係に、「陛下のご意思」を形式的に問題にできるところが、「象徴天皇制」のミソだ、というのが、ジジェクの主張だったと思います。


たとえば「日の丸の強制は≪陛下のご意思≫に反する」と、言えるのかどうか(国旗国家法が閣議で通ってしまった以上、「日の丸の強制は陛下のご意思」なわけですが)。 「日の丸」が、「無条件的忠誠」を誓わせるものではなく、「閣議決定への形式的承認」のマークでしかないなら、「強制」ではなく、「法的正当性」の問題になると思うのですが…。





*1:という理解がいちおう共有されている

*2:三島由紀夫は『英霊の声』の中で、「あれは≪人間天皇≫の発言であって、≪本物の天皇≫のご意思ではない」という意味のことを言っていなかったでしょうか。 「などてすめらぎはひととなりたまひし」を、僕はそのように理解したのですが。

*3:在野でも、権威者の周囲にはつねにある風景だと思います。 そこには「○○先生が、権威主義はいけないって言ってたぞ! 逆らう気か!」という喜劇さえ…。

死に至るシニシズム → 内ゲバ

 自分たちが議論する言葉がなかったり素養がないということについて、忸怩たる思いを抱く学生さんが増えているのも事実で、だからこそ僕のゼミが盛況になる。 しかし逆に、どうせ考えても分からないから、忘却の淵に沈もうというような学生さんも増えていて、先鋭に二極分解しつつある印象があります。*1

これ、そのまま「ひきこもり」業界、とくに当事者・経験者の生態についても言えないでしょうか。
2ちゃんねるの、「ヒッキー」板のスレを、どれでもいいから覗いてみて下さい。 もちろん「2ちゃんねる」全般がそうなのでしょうけど、「このままほっといたら死ぬしかないけど、考えたってどうにもならない」というシニシズムがひどい。 それが、「上山は文化人気取りのバカ」という罵倒にもつながっている気がします。
シニシズム」というとふつう、「体制に順応している人」の冷めた順応主義をいうと思いますが、ひきこもりの場合、「不可抗力の完全な脱落者」として、シニシズムに陥っている。 まさに「死に至るシニシズム」です。


こういうタイプの人が困るのは、「何を言ってもどうにもならない」と思っているがゆえに、ひきこもりの立場を悪くするような言動も平気でとるということ。 何を言っても「プラス方面にはどうにもならない」んだから、無責任でトチ狂った発言をしても、「マイナス方面にも大丈夫だろう」と。


僕に向かって「何を言ってもどうにもならないんだから、お前は黙ってろ」と言う人は、その自分の発言のパフォーマティヴな効果は信じている*2わけだし、自分の「どうにもならない」という信念については、絶対的だと思っている。 → 「ひきこもりはどうにもならない」という当事者の信念には、ほとんど宗教的なものさえ感じます。 「ほとんど宗教的なまでに絶対化された絶望、というような。
ほんのちょっとでも「希望はあるかも」と口にした瞬間、「おめでてえな」と言われ、ウサ晴らしの対象になる。 → ひきこもり当事者(経験者)同士の内ゲバ


「努力を続けていれば、何かあるかもしれない」というのも「信仰」でしょうが、同じ信仰なら、ベタな努力を尊重するスタイルを採りたい。(そのスタイルをとれないほどに絶望しているのが当事者なわけですが。)





*1:憲法対論』p.16、宮台氏の発言。 赤字強調は引用者。

*2:「上山を傷つけて楽しみたい」のでしょう。

≪純潔主義≫ → 「安楽死」か「絶望の措定」か

 がんばれば報われるというふうに素朴に思う学生さんはどんどん減っていて、「実際にはそういうふうになっていないじゃないか」ということを言います。 利いた風な口を叩いているけれども、こういうニヒリストぶりっここそが「純潔主義」に見えるんです。*1



よく言われることですが、「何をやってもどうにもならない」は、「どうにもならない」と認識している自分自身は、純潔に温存することができます。 「どうにかなるかも」と現世的な努力をはじめた瞬間に、自意識が不純にけがされる。


と言っても、ひきこもり当事者(経験者)が「どうにもならない」と言ってしまうのは、「それほどまでに絶望が深い」ということだし、「その絶望の断言自身が防衛反応である」と言うこともできます。 「まだ希望があるかもしれない」と言ってしまったら、あの危険と傷つきに満ちた時間が始まってしまうのですから。


恋愛についてもそう。 「自分にだって、希望はあるかもしれない」と言うことが、どれほど苦しいか。 「自分にだってあり得た」のだとしたら、「何もなかった30年間」は、どう理解したらよいのか。「頑張れば何とかなった」のか。 → 「努力しても自分にはムリだし、そもそも自分には必要ない。このまま死ぬしかない」と受け止めれば、楽になれる。 自意識安楽死


「希望がある」という感覚が「不純」で、それゆえに引きこもり当事者(経験者)には耐え難い(なじみにくい)ものだとしたら、斎藤環氏の言う「ひきこもりはオタクになればいい」というのは、かなり無理のあるスローガンになる。 現世的で(不純な)希望(快楽)には、喪われた(苦痛に満ちた)あの時間*2を補填するほどの実りはない。 傷つき、完全に絶望した当事者のメンタリティに見合うのは、「完璧なる純潔主義」だけなのではないか。 → その純潔主義を、「ニヒリズム」から、「社会的に措定された絶望」に向かわせることはできないか。


上で触れた、「閣議決定後の形式的承認としての≪陛下のご意思≫」が、そのようなものであり得ないだろうか、というのが僕の論点でした*3。 → それは「天皇陛下万歳」を叫べばいいという話ではなく、「閣議決定」が大前提なのですから、憲法や法律について勉強するとか、実際の政治活動が必要になるとか、そういった話になってしまうわけですが。


完全に絶望した当事者(経験者)を動機づけるほどの何かが示せないなら、やはりニヒリズムに徹し、「自意識の安楽死」に身を任せるしかないのだと思います。 あるいは文字通り、「ひきこもり当事者の安楽死を認める法案」を検討し、ロビー活動すべきでしょうか。 「私たち引きこもりには生き残る希望が一切ないのだから、せめて安楽死させてくれ」と。
僕は冗談で言っているつもりはありません。 「どうしたら楽に死ねるか」は、ひきこもり当事者の最大関心事の1つのはずです。


絶望のピュアリティに見合うほどの現世的事業はあり得るか。
「ひきこもり」は、「オタク」に似ているように見えて、実はまったく違う。
「ひきこもりに精神主義を押し付けてはいけない」と言いますが(それは本当です)、それは「ひきこもりは精神主義を嫌うから」というよりも、「(いい加減な説教では)精神主義の度合いが低すぎるから」ではないか。 ひきこもりを動機づけるには、「もっとよりピュアな精神主義」である必要があるのではないか。 「命懸けのひきこもり」に見合うだけのピュアリティ。
ひきこもり当事者こそが、もっとも極端かつ先鋭的な精神主義者であり、それは「完全な絶望」ゆえのなれの果ての姿。 あまりに傷ついているので、そのようなピュアリティによってしか自分を保てないのではないか。


社会復帰のための「有効な訓練」があり得るとしたら、それは「精神主義の解体」か、逆に「極端に純度の高い精神主義のインストール」以外にないのではないか。 これほど深く傷ついてしまった人たちには、もはや「適度の精神主義」は不可能なのではないか。





*1:憲法対論』p.17、宮台氏の発言。 太字強調は引用者。 あと、「実際には〜ないか」を、引用者がカッコに入れました。

*2:引きこもっていた時間

*3:これは「否定神学」で、だからいけない、と言うべきなんでしょうか。

「空疎な抽象論」か、「理論なき(恣意的な)個別対応」か

僕が個別対応的なカウンセリング業務に困難を感じ、思想・制度の問題を考える必要を痛感したのには、いくつかの理由があります。 以下に列記してみます。
ただし、これは「個別対応の価値を認めない」ということではなく(そんなことできるわけありません)、「現状では個別対応の価値ばかりが喧伝されているが、理論的に考える努力にも意味はあるのではないか?」という提言です。

  • 相談業務をしていると、一人一人の依頼者が、「特殊性」(「依頼者として」)ではなく、「単独性」(「個人的な友人として」)の対応を要求してくる。 → 「誰が友人になれて、誰がなれないのか」の承認闘争が発生し、耐えられない状況になる。
    • 斎藤環は冷たい」と言われるのもこれでしょう。 斎藤氏は「医師」であり、面接室には「患者−医師」関係しかないし、それしか許されない*1
    • 逆に言うと、在野の支援者は、「支援対象との人間関係(の線引き)をどうするか」に、つねに悩まされる。 「スタッフとして付き合っている」のか、「個人的に親身な友人」なのか。 → 支援者も(趣味趣向を持った)一人の人間であり、「相談を受けたすべての人を個人的な友人にする」ことなど不可能。 → 「スタッフとして付き合っている」にもかかわらず「単独的に対応している」は、あり得るか。
    • というより、「単独的対応」は、やはり必要なのか。 「単独性」については、当事者同士、あるいはまた別の「出会い」に託すしかないのではないか。
    • ――といった議論そのものが、「理論的検討」である。


  • 支援活動における、「ミッションの確定と線引き」という論点に即し、支援技法を洗練する必要がある。
    • この「線引き問題」は、関係者にしか理解しにくいのかもしれないが、支援者を守るためにも、当事者(消費者)を守るためにも、必須の論点*2。 → 支援者が「引き受けすぎない」よう、消費者が「ぼったくられない」よう、契約時にはっきりさせる必要がある。
    • その際、上記のような「単独性/特殊性」という理論的理解はとても重要。
    • 「ミッションの設定」は、「ひきこもりに対する理論的理解」が行なうはず。 「理論など要らない」は、それ自体が一定の「ひきこもり理解」の理論的帰結であり、思想的立場の表明。 あるいは、自分の恣意的立場を絶対化しているにすぎない。


  • 「ゴチャゴチャ考えてないで、やれ」が有効な局面は、たしかにある*3。 しかし、何度も触れているように、努力課題のすべてを「個人レベルの修行」に置くことは、「課題のすべてを当事者個人に還元する」ことになる。
    • 「個人的な訓練は必要ない」のではない。 「どのような訓練が必要か」が問題なのだ。 → それを決めるのは思想的理解*4
    • ひきこもりの苦境が、「自意識のトラブル」に多くを負い、それが時代的背景と密接に関わるとしたら、思想的な議論は無視できないのでは(もちろん「苦痛緩和に役立つ」範囲で)。
    • ひきこもりが、「政治的敗残者」の問題であるとしたら*5、「思想」や「制度」の問題をどうして無視できるでしょうか。 「脱落者」であればあるほど、思想や制度の成り立ちを検証する必要があるはずです。


  • 個人的に考えて、「言葉に関する貧困さ」が、あまりにも大きな苦痛と悲劇を生んでいるように思われてならない。
    • 「ひきこもり」は、関係者【当事者・経験者・家族・支援者・研究者・批判者】の言説を、ひどく貧しく、ステレオタイプなままに温存し、それがひどい苦痛を生んでいる*6。 → ひきこもりについて論じるのであれば、最低限この程度の議論は踏まえなければならない」という業績を蓄積し、「議論の貧困さ」に対抗する必要がある。
    • 「為すべき議論を為す」のは、ひどく難しい。 しかし、少なくともチャレンジの価値はあるのではないか。 「有意義な議論」が、どれほど大きな苦痛緩和を育むか、を考えれば。



僕は、業界関係者(当事者・支援者など)にとっては「哲学ヲタの馬鹿」であり、アカデミシャンにとっては「理論と教養のない馬鹿」になる。 現場には理論家の成果が届かず、理論家には現場の葛藤が伝わらない。 → 「現場の苦痛に即した理論」こそが、必要だと思うのですが…。





*1:精神科医が患者と「プライベートな友人・恋人関係」になることはご法度のはずです。 斎藤環氏は公的に僕をご紹介いただくとき、「友人の上山さんです」とおっしゃるのですが、これは僕のためではなく、斎藤氏ご自身のケジメのためだと思います。 僕は斎藤環氏の患者になったことは一度もなく、「患者 → 友人」という展開では一切ありません。 【蛇足ながら、当ブログで僕が展開している議論を斎藤氏がどう思われているか、僕はまったく知りません。】

*2:逆に言えば、この点をぼやかす支援者は、信用してはならない。

*3:特にひきこもりの場合、「防衛反応として(逃避的に)抽象思考に没頭する」という要因は無視できないし、短期的成果のためには「とにかくヤル」は必要。

*4:「思想とはなんだろうか」と思ってしまった。とりあえず「何が正しいか」についての立場、としておきますが、僕が「必要だ」と言っている「思想」とは、どのようなものでしょうか。

*5:拙著 p.188

*6:「ひきこもりについて論じている」光景は、いつも「陳腐なロールプレイ」にしか見えません。 肯定派も否定派も、既視感のあるパターン化された言説を繰り返すだけ。

「経済」の話はどう関わり得るのか

今日アップした議論では、僕の以前からの懸案である「経済(学)」についての議論がまったく扱えませんでした。 今後の課題です。 ――というか、今日考えたような「自意識」や「敗残者」の問題が、経済政策論(あるいは地域通貨ベーシックインカムなど)とどう関わり得るのか、それ自体がよくわかっておらず、だから経済の勉強も遅々として進まないのですが…って言い訳ですが。




長々と書いてしまいました。 数日に分けてエントリーすることも考えたのですが、今日の話は僕の中では一つのまとまりを持っているので、あえて一括掲載してみます(すべて一気に書き上げました)。 「これでは読みにくいので、今度からは分けろ」ということでしたら、そうします…。


もし読んでくださった方がいたら、本当に感謝です。 忌憚ないご意見をうかがってみたいです。