「公私混同」のディテール

昨日はコメント欄にて、「世間」や「憲法」についてのご教示をいただきました*1。 いずれも、すでにアカデミックな議論が大量に積み重ねられているのだと思います。 論点の取捨選択が難しいところですが、「ひきこもり」というテーマ設定との関係において、少しずつ調べていこうと思います。



*1:いつの間にか、当コメント欄への書き込みがアンテナに反応しないようになっているようです。どなたか設定をいじられたのかな?

「法や制度」と、「慣習や世間」

最近、憲法を調べてらっしゃる id:matuwa さんからは、具体的な論点とともに、「公私の区別は、憲法が決めている部分もある」というご指摘をいただきました。なるほど。
ええと、まだよくわかっていないのですが、「法律」というのは「国が国民を縛る」もの、「憲法」というのは「国民が国を縛る」もの、という理解でいいのでしょうか。


コメント欄にも書きましたが、「法や国家の権威よりも、『世間』という権威や圧力への対処法のほうが切実だ」というご意見は、微妙なところだと思います。 「世間」(そこには「他の当事者」や「インナー世間」も含まれます)からの圧力があるからこそ、それに対抗するためにも、「法や国家」の権威が必要かもしれない。 つまり「既存の法や制度ゆえに、なし崩しに追い詰められる」面は確実にあるとして、しかし反対に、「既存の法や制度の中にも、私たちを救済してくれる要因はあるのではないか」と。
苦痛緩和のための議論が「空理空論」にならないためにも、既存の制度の何を変更すべきで、何を活用すべきなのか、そこは具体的に論じるべきなのだと思います。 「この社会のすべては間違っている!」とか叫んでも、どうにもならないので…*1


「法や制度」と、「慣習」はちがいますよね…。 以前、アメリカの「年齢差別禁止法」について触れましたが、日本でこの問題をちゃんと考えてもらうためには、やはり「政治家への直訴」しかないんでしょうか…*2




余談ですが、「世間」について、太宰治人間失格ISBN:4101006059 より。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。 これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。 人間の複数でしょうか。 どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。 けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。 あなたが、ゆるさないのでしょう?)

今ならさながら、「ひきこもり」こそが「人間失格」でしょうか…。



*1:id:matuwa さんがそうだと言ってるのではないので念のため。 僕自身が、どうしても「感情的な叫び」で終わってしまいがちなので。

*2:これ共産党のページですが、「年齢差別禁止」というのは、少数派にしかできないような「過激な」主張なんでしょうか…。

「公と私」

宮台真司氏の『憲法対論』、魅力的ながら読み進むのにとても難儀しているのですが、ひとまず「公私接続の論理」を問いの機軸として、読む努力をしてみようと思います。
でも、「ひきこもり支援」について論じるのに、「公私」の話なんて必要なんでしょうか。 それこそ、苦痛緩和に関係ない「知的お遊び」なんではないか。
そこで、実際にこのテーマについて論じてみる前に、「そもそもそんな話は必要なのか」について、すこし考えてみます*1


拙著ISBN:4062110725 p.208 で、僕は次のように書きました。

 あるシンポジウムで、「ひきこもりの連中は≪自分≫を捨てていない、≪自分≫を捨てろ!」と言われたことがあります。 これは、「公と私」の問題を言っているわけですね。 「公」のために「自分を捨てる」ことを学べば、ひきこもりなどにならないはずだ、と。 ひきこもりはあまりにも、≪自分≫に執着してしまっている、と。



これは2000年の10月、僕が「ひきこもりの経験者」として、初めてシンポジウムのパネラーをさせていただいたときのエピソードです。 僧職に就かれているのか、スキンヘッドの男性が僕への質問のために発言し、「社会のため、国のために自分を捨てろ!」と叫んだのでした。 これで僕は、「ああ、引きこもりというのは、保守・右翼系から糾弾を受ける立場にあるんだな」 「実名を晒してしまっているし、うかつに引きこもり擁護の発言をすると、殺されるかもしれないな」と思ったのでした。 その場では、次のようにお返事したのを覚えています。 「ほかの当事者はどうかわからないが、私自身について言えば、≪本当に納得して自分を捨てる≫という体験を、実は切望している」 「必死にそういうテーマや対象(天職)を探している」 「さもなくば自分を支えられないと感じている」。


保守・右翼系からは「自分を捨てろ」と糾弾されるのですが、実は僕は引きこもり当事者たちからも、ここ3〜4年同じ罵倒を浴び続けています。 「元ヒキでしかないくせに哲学談義をして、≪プチ斎藤環≫の文化人気取り」 「ひきこもりという不幸体験をネタにした売名行為」 「当事者に寄生して稼いでいる」――いずれも、「いくらカッコつけても、お前の言動の≪真の動機≫は見え透いてるんだよw」という指摘です。 僕がひどい目に遭わされても(殺されても)、当事者たちは「それみたことか」と嗤うだけでしょう。
つまり僕は、どんなに頑張っても、「お前は自分の私利私欲のためにほざいてるだけだろ」と見られているわけです。


僕を罵倒した右翼や当事者が本当に「公」の立場にいるのか、はともかく、「私欲のために公的な利益を犠牲にしてはならない」という前提は、共有されているようです。
でも、考えてみれば、現在の経済社会は、「私欲の追及」に基づいて成立しているはず。 というか、「ひきこもり当事者」のメンタリティには、「私利私欲の追求」になじまないところがあって、だからこそ社会に入っていけない面がないか。
先日から「自意識の純潔」などと書いていますが*2、「無垢なる純潔」を譲らない(というか譲れない)という点において、僕はひきこもり当事者の内面に、危ういものを感じています(もちろん他人事ではありません)。


本にも書きましたが、「秘密のマネジメント」の下手さ、「泣き寝入り」体質*3、それに「社会的不正義に怒る」*4といった当事者のメンタリティには、「守るべきところで自分(や大切な人)を守れない」、「公的な正義を夢想しすぎるがゆえに、現実的な私生活を運営できない」という本質的な問題が見え隠れしています。
つまり「公私のけじめをうまくつけられない」というのは、ひきこもりを批判する側にとって重要な論点であるばかりでなく、当事者本人の内面生活にとっても、喫緊の問題ではないか。
現実に僕は両サイドから、「お前は公私混同している」と非難されているわけです。


「ひきこもりなんて自己責任(自業自得)なんだから、公的に支援するなんておかしい」といった非難も、「公私混同」を問われている。 当事者が「社会的弱者」だとしても、それへの支援は「公的には正当化され得ない」と。
当事者自身が社会的再デビューを目論むとき、自分の自意識のレベルでは、どのように問題解決するのか。 「自分が生きるために、妙な正義感は捨てる」のか。 「自分なりの努力は続ける」のか。 そもそも「自分の自意識を維持するために正義に固執する」のは、それこそ「公私混同」ではないのか。――といった各種の問題設定。 → それは、「憲法」「政治」などとの関係において、どう扱い得るのか。


「好きなことを仕事にしたい」 「天職に就きたい」という願望も、「お金(私欲)のためにすべてを犠牲にする、というような苦しみに満ちた生き方はしたくない」という認識の、おだやかな表現ではないでしょうか。 そしてほとんどの人にとっては、「やりたくないが、仕方ない」が全てだし、「働く喜び」があるとしたら、その中から探していくしかないのではないか(やりたいことを仕事にできる人なんてほとんどいない)。 つまり「私欲の追求」のなかに、わずかに光る「人のため」を探すしかないのではないか。


私が「ひきこもっていてはいけない」「侮辱・排除されるべきだ」としたら、それはどのレベルにおいてだろうか。 法律、ではない(ひきこもりは違法行為ではない)。 政治? 道徳? 「親が子供を扶養する」という個人的なイベントに、どうして他人が(「公」の顔をして)口を挟むのか → しかしそれを言うなら、公的な援助は期待できない? いや、そもそも「ひきこもり」は、本人自身が(エゴで)望んだ状況とは言えない――などなど。



*1:「『そもそもそんな話は必要なのか』という問題提起はそもそも必要なのか」という無限後退もいちおう視野に入れつつ。

*2:当サイトの最上部の窓で、「自意識 純潔」の2語を入れて検索してみてください。

*3:いずれも p.192

*4:p.148、p.208〜。 「自分をイジメた相手が公正に裁かれていない」という怒りもここに入ります。

積み残し

……というわけで、「私」と「公」の関係は、「ひきこもり」というテーマに内在的であると思うのですが。
実はこの「公私」のテーマ、拙著の中では最も「うまく語れなかった」部分だと思っているのです。 「いちばんうまく語れなかったが、でもひょっとすると、いちばん大事かもしれないテーマ」。 そんなふうに考えて、ゲンナリしていたのでした。