傷とアファニシス

ひきこもりは、死とトラブルを恐れた状態にある。
外界に関われば、必ずトラブルに巻き込まれるのだから、――というよりも、外界に関わって生き延びるとは、「トラブルをやりくりしてゆくこと」だから、
揉めごとに関わってもあえて自己主張できる強さをもてなければ、つまり泣き寝入りしないで自分の存在と意見を主張してゆくという狂信的な固執をもてなければ、
わざわざ社会に関わって自分を維持してゆくことはできない。
私はずっと、その狂信的固執の淵源を問題にしていた。
ひきこもっている人間は、その「狂信的固執」を、これ以上ないほど失っている
失うことにおいて狂信的になっている。


再帰的に自分を問い直すことをせずに生き延びられる人は、自分を維持する狂信的淵源について、それをすでに無自覚に保持している。 そのスタイルを身につけている。 すでに身につけた人からできない人を見ると、「なんともだらしない」と見える。 逆に一度その固執を失った側(ひきこもり)から見ると、意識的に覚醒して狂信を失ったのに、どうしてふたたび狂信を再生できるのか、と思う。 傷がどうしても狂信を許してくれない。


私が持ち出そうとしたのは、そして実際に自分が生きてみているのは、「傷そのものを狂信として生きてみる」という作業にあたる。 傷に再帰的に立ち返りそこで分析的に生きてみることは、私に言葉への過剰な情熱を呼び覚ました。 私はその情熱を生きることで社会生活をつないでいるにすぎない。 ひきこもった情熱*1と、努力を続けている情熱は、別のものではない。 ▼「精神力で」つないでいるのではない。 継続への固執は意識に肉体的に実装されていて、私が意識の肉を保つかぎりはその淵源が尽きることはない。 外部から固執を押し付けたり、無理やり執着を生み出そうとするのではなく、すでに生きてしまっている固執(傷)を淵源として、メタ的・分析的な自己吟味を徹底的に(ていねいに)生き抜いてみること。
その語りは、主知主義的に自分を窒息させること(アリバイ作り)ではなく、致死的な享楽の道行きそのもの。 他の道では、私はすぐに脱失(アファニシス)してしまう。
アファニシスが起これば、私は社会関係を維持できない。 スペックに支配された「コミュニケーション」*2だけでは、いまでも中間集団を維持できない。 人間関係がわからなくなる(すべて廃絶)。 そうした関係は、トラブルを維持してまで帰属・継続すべき何かではない*3
これは事後的な認識だが、わたしは、固有性にもとづく「関係性」を、欲動の倫理にしたがう形でしか維持できない。 このことは、自己と社会関係を倫理的に維持するための、核となっている。 偶然の出会い*4から始まった事後的な分析労働の遂行が、生まれてから一度も成功したことのなかった関係性の運営を可能にした。 【何度も言うが、「コミュニケーション」は耐えられない。】
ひきこもり的心性においては、「それしかできない」ということと、倫理的選択とが、症候的に踵を接している
心理的な傷や欲動が問題になっているとしても、「孤立した心理学趣味」とか、「傷ついた僕を分かって」では、継続的な社会参加(トラブルそのもの)を運営するための、倫理的なエンジンを調達できない。 それでは、自滅的に参るしかなくなる。



*1:「本人の意図を超えて」という塩倉裕定義を尊重したい私としては、この言い方には抵抗がある(cf.芹沢俊介引きこもるという情熱』)。 しかしここでは、ひきこもること自体が「本人の意思を超えて」途方もないエネルギーを要する、その逆説的な事情を考えている。 私は、その逆説的な事情を殺すのではなく、それ自体を生きようとしている。

*2:参照: 「「関係性」と「コミュニケーション」の差異について」(斎藤環氏の提言)

*3:トラブルの維持よりは、泣き寝入りと「家の中での暴発」しかなくなる。 ひたすら自分を責めることと、ひたすら相手を責める無力と。 具体的な交渉・折衝関係に入れない。

*4:ひきこもりの親の会の関係者との出会いと、その親の会でのカミングアウト発言、それへのレスポンス。 親の会での反響がなければ、そもそもこのような形での活動や情熱があり得るということ自体に気づくことができなかった。