「「学の介入」から「表現」へ」(斎藤寛氏、日本社会臨床学会より)

“再生産論のアポリア”と「心理主義」の議論群の難点と、この双方を串刺しにしてその先の眺望を得ようとする時、ひとつの重要な手がかりとして、「表現の奪還へ」ということがあるのではないか、ということを言いたい。 そこでは、“こんなにも生きにくい私”を専門家に見て(診て)もらう関係に依存せず、社会科学を糧として“「私(たち)」を見る「私(たち)」”を立ててゆく自律的自己救済への方位が望見されるはずだ。

この学会があった2004年5月は、貴戸理恵さんの『不登校は終わらない』の出版まえ。
「社会科学を糧として」というから、「べてるの家」などとも違う話なのだと思う。
ひとまずメモとして。 【参照: 「語られる」存在から「語る」存在へ
「表現を奪還する」ことは、周囲や社会との交渉関係を成り立たせるためにも、必須の要件だと思います。
ただ、そこであらためて、「どうしてもできない人」が残り続けるのですが・・・。