『引きこもり狩り』について 1

ueyamakzk2007-03-25

引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』について
2006年4月、ひきこもりを「支援」するはずの施設で起こった死亡事件参照を受け、さまざまな経歴を持つ6人の原稿と、緊急シンポジウムの記録が掲載されている。
細かく読めば、論者によって主張する内容はさまざまなのだが、この本の全体が、ひとつの政治パンフレットのように成立している。 「ひきこもるしかなくなってしまった人は、とにかく追い詰められているのだから、まずは全面的に肯定されるべきなのだ」と。 社会復帰を強要する、「善意」の支援の暴力性――「引きこもり狩り」――が、繰り返し批判される。


正直に言えば、積極的なひきこもり論としての内容には乏しいのだが、憎悪に満ちた「支援」論があとを絶たず、死亡事件まで起こっている現状では、「まずは無条件に肯定してみせる」という直截な素振りの政治的意義は、どうしても無視できない。 暴力的な支援者の存在におびえる当事者の多くは、この本に安堵したと思う。


ただ、「ひきこもりを全面肯定すべきである」という主張は、当然ながら、ご家族による扶養を無条件かつ無際限に要求している。 それは事実上、永続的な資金提供への「命令」であり、ご家族は、この運動体のイデオロギーに威圧されてしまう。 ▼理念的な正しさを主張するだけで金策を相手に任せ、工面できなければ「悪いのはお前だ」というのでは、一方的すぎる。


また、「全面肯定すればいつかは社会に出てきてくれる」というのだが、これでは自分たちのロマン主義をひきこもりに押し付けているだけで、事実上はひきこもりの権限を否定している。 ▼いくら肯定しても出てこれなければ、結局はひきこもっている本人の責任か、あるいは「家族による肯定の度合いが足らなかったからだ」という話になる。 何をどうしても本当に出てこれないケースは、「ひきこもりを全面肯定せよ」という主張にとって都合が悪いため、「存在してはならない」ことになる。*1


今の私は、(1)あくまで形式的には、「本人を含む、家族や社会との対等な交渉関係」を正義の理念としつつ、 (2)それが実際的にはほとんど成立しない現実をどう調整してゆけばよいのか、という立場で、ひきこもりを考えている。 以下は、そういう立場からの批判的言及である。


『狩り』 2】、 【『狩り』 3】、 【『狩り』 4】、 【『狩り』 5





*1:当事者の「言葉」ではなく「存在」を擁護するそぶりは、支援者側の政治的アリバイとナルシシズムに益しており、支援される側の言説や権限はかえって抑圧されることになる。 【参照:「貴戸理恵の事案」】